ロシア軍ヘリ墜落・阪神支局襲撃・愛知立てこもり事件におけるチェチェン問題の想起

「ロシア空軍ヘリ墜落事件」

 4月末から5月末までの一カ月間、日本のマスコミによるチェチェン関連報道を見てみると、まずは4月27日にチェチェン領内で起こったロシア空軍ヘリの墜落事件記事を見つけることができる。といっても、これはいくつかの新聞に小さな記事が掲載されたのみで、どれだけ多くの人がこの事件でチェチェン問題を意識したのか疑わしい。もちろん、チェチェン問題の記事が少ないこと自体を今更ここで声を大にして言うつもりはない。何か大きな突発的事件が起こった時しかチェチェンが注目されないのは、今に始まったことではないからだ。日々の死傷者数を詳細にリポートされるイラク戦争とは扱いが違うのである。ただ、突発的事件だけでなく、チェチェンの日々の生活の中にも事件性は深く根を張っていることを忘れるべきではない。「日常」と呼ばれる生活空間の中に、悲劇と落胆、そして過去のものとして整理できない記憶の数々が混在している。

「不屈であること 阪神支局襲撃事件、あすで20年」

 ところで、この期間の新聞報道を追っていると意外な場所でチェチェンの名を目にすることができた。ひとつは、5月2日の朝日新聞(朝刊)に掲載された、「不屈であること 阪神支局襲撃事件、あすで20年 江川昭子さんと対談」という記事である。本記事は、朝日新聞阪神支局が散弾銃を持った男に銃撃され、2人の記者が死傷した20年前の事件について、朝日新聞論説副主幹の臼井敏男氏とジャーナリストの江川昭子氏が「報道の自由」の観点から対談したもので、言論に対する暴力の問題性を語られている。そこで、2006年10月に殺害されたアンナ・ポリトコフスカヤ事件が江川氏によって言及されており、「チェチェン紛争でのロシア当局による過剰な武力行使プーチン政権の腐敗を批判した女性ジャーナリスト」として説明が付されているのである。
 近年、日本でも数々の言論に対する暴力事件が発生しており、ポリトコフスカヤの事件は私たち自身の生活にも密接にかかわる問題であろう。対談によれば、最近は気に入らない報道や何らかの主張を封殺するためには、その発言を行った人間自身によりも、その人間の自宅や家族に対して暴力が加えられることが多いという。家族を脅した方が効果があるというあまりにも卑劣な手段である。例えば、暴力団関連の記事を書いたフリージャーナリストの溝口敦氏の息子が路上で刺されたり、加藤紘一議員の実家が右翼の男性に放火されたりなどという事件がそれだ。社会的問題を真摯に告発しようとする人間が攻撃の対象になり、そんなことをしない方が安全でいられる現実がある限り、多様な言論はますます暴力的に封殺されてしまうだろう。私たちは、ジャーナリストをはじめとして、社会的問題を意識的に告発していこうとする個人や集団を励まし、協力し、また自ら可能な限り行動を起こすことが必要である。対談中で江川氏が述べているように、「良い記事と思ったときは「よかったぞ」という声を上げ」ること、関心を持っているという意思表示を行うことだけでも大きなことなのだ。命をかけて闘っているジャーナリストの存在が、権力の愛犬になっているその他のジャーナリストによってかき消されることがあってはならない。

「愛知・立てこもり事件」

 もうひとつチェチェンの名を含んでいた記事は、同じく朝日新聞の5月19日朝刊で、「(時時刻刻)特殊班、持久戦も手段 愛知・立てこもり事件」という記事である。この事件は、愛知県の長久手町で銃を持った男が立てこもり、SATの林一歩巡査部長を死に追いやった事件として私たちの記憶に新しい。なぜここでチェチェンの名が現れるかといえば、「近年の主な立てこもり事件」として2002年のモスクワ劇場占拠事件と2004年北オセチア学校占拠事件が記述されているからである。もちろん、その歴史的背景を無視して愛知の事件とそれらの占拠事件を同列に扱ってしまうことは適切ではない。そのことを指摘した上で言えば、国内の事件とチェチェンやその他の外国で起きた事件を結び付けて考えるこの視点は非常に重要であると思われる。チェチェンの場合は、それまで長年にわたってチェチェン人が虐殺されてきたという歴史があり、またチェチェンニュースでも折に触れて指摘してきたように、ロシア特務機関が事件に関与した疑いは完全に消え去ったわけではない。しかし、ここで問うてみたいのは人質や近隣住民の恐怖と、罪のない人間の悲劇的な死についてである。愛知の事件を少なからぬ日本人が痛ましい事件だと感じたはずだが、その悲しみをロシアや北オセチア、もしくはチェチェンという土地で過去に起きた事件と重ね合わせることで、私たちの悲しみは時間と空間を越えて、共有はできないものの少し近づくことはできるのではないか。

チェチェンを想起すること

 以上に挙げたどちらの記事も、日本の事件とチェチェン問題をある視点で繋いでわずかに言及しただけである。しかし、チェチェン関連のニュースがこれだけ少ない中で、自らの社会に起こった事件と結び付けてチェチェンを想起すること、意識することが大変貴重な思想的実践であることは言うまでもない。これまでチェチェンニュースでも日本とロシア両国政府の強権化を憂慮してきたが、他者の置かれた悲劇的現状をいかにして自らの問題として捉えることができるか、いかにして私たちは主体的に関わっていけるのか、これこそが今度も考えていかなければならない問題であり、メディアに求められる報道の在り方であろう。(藤沢和泉/チェチェンニュース)