『ロシアン・ダイアリー』書評

ootomi2007-07-05


 生き続けるためには服従しなければならない。そんな光景がこの世界にはあふれている。つまり、反抗は死を意味するということだ。服従は必ずしも易々となされるのではない。苦しみ、痛み、悔しさ…数え切れないほどの涙を流し、叫び声を上げ、抱えきれないほどの恐怖とあきらめを胸にしまいこみ、もう誰も本気で世界を変えられるなんて思わなくなったときになされるのだ。権力(=お金)のある人もない人も、自分よりもっと権力(=お金)のない人々を虐げて生きる。次第に人はそうしなければ生きていけないかのような世界、いや幻想を作り上げていく。

 『ロシアン・ダイアリー』に出てくる人々は誰もが不条理な世界で生き延びるのに必死である。そう感じないではいられない。アンナ・ポリトコフスカヤチェチェン人の味方なのではなく、彼女はすべての弱き者たちの味方だった。チェチェン人もロシア人も、戦争で死ぬのは最下層の人たち。チェチェン人もロシア人も、ふかふかのソファーにふん反り返って笑うのは最上部の人たち。自分がどのランクにいるのかで、生き方が決定づけられる。誰にも文句を言うことは許されない。


 もはや、みんな不快に思っていないのか、不快に思っていても言えないのか、それを見定めることは困難になった。権力は環境になった時点で誰にも気づかれずに人間を動かすことができるようになる。


 生活が悲惨になればなるほど、もっと悲惨になることだけが恐ろしくなり、誰もが「あの人たち」よりはましだと自分のランクを満足のいくものに昇華させていく。そうして、ひっそりとした、暗く湿っぽいあの場所で生きる「キノコ」になるのだ。ここもなかなか落ち着いていていいじゃないか、と。


 誰も何も言わず、言っても誰も変わらない。ロシアでの不正の告発は危険ばかりが大きく、得るものといえば身体への新しい傷以外にない。世間がその勇気をたたえ、他の誰かが後に続いてくれたら、犠牲になったっていいのかもしれない。だけど今のロシアじゃそんなことをして参戦してくれる人はいそうにない。だから自分もやらない。


 この悪循環に逆らうたった一つの清流がポリトコフスカヤだった。彼女は言った。「人として生れたのならキノコのように振る舞っているわけにはいかない」。


 彼女のこの言葉は真実である。彼女は人として生き、そして死んだ。混沌の中で「人間」は長く生きられないのだ。「身体は自由で魂は奴隷」か「身体は奴隷で魂は自由」か。この二者に限っていう場合、後者がここで言う「人間」である。


 「人間」になるためにせめて痛いのは我慢しよう、死ぬのもしょうがない――それでこの世界が良くなるなら。だけど自分ではなくて代わりに両親が拷問されたら?子供がレイプされたら?恋人が殺されたら?そもそも自分が戦ったことなんて誰にも気にとめられず忘れ去られるのではないか?「人間」になるために立ち上がれない理由には事欠かない。それがロシア――そして世界である。誰が彼/彼女を責められるだろう?少なくとも私たちにはできない。命をかけたポリトコフスカヤにはそれができる。


 悲観的見解だけ述べてこの論を終えるつもりはない。ポリトコフスカヤは国外(特にぬくぬくと温かいベッドで彼女の本を読むことができる私たちの「先進国」)で絶大な評価を受けている。私たちは彼女の本を手に取り、知ることができるのだ。


 ここから先は、あまり詳しく言う必要がないかもしれない。なぜなら、今すぐロシアを変える画期的方法など存在するはずもなく、あるのはただ、私たちがロシアの現状を見続け、市民運動に参加したり、日本政府やロシア政府の誰かに書簡・署名を送ったり、猛勉強して国際機関やマスコミで働いて直接に現状に働きかけたり(もしくは今は働いている人はもっと頑張ったり)、そういったいつものお定まりの方法しか私たちは手にできないからである。もちろん私たちはこの方法を軽視できない。この方法は確かに有効なのだ。問題はこの方法を世界中の「何人が」、「どれだけ」実践するかである。私たちの前に方法は準備されている。やるのか、やらないのか、それだけなのだ。

(藤沢和泉)