『コーカサスの金色の雲』著者プリスターフキン

ootomi2007-07-17



 『コーカサスの金色の雲』という小説がある。第二次大戦時、チェチェン人をはじめとした諸民族がスターリンによってカザフスタン等に強制追放されたが、その彼らのいなくなった土地にまた別の民族が移送され、この安易かつ非人道的な政策が現在にまで続く対立構造に重たい影を落としている。本作品はこの事件の一角を描いた大変な力作であり、日本では1995年に群像社から三浦みどり氏の翻訳で出版がされた。

「1944年。500人の孤児がモスクワから人影の消えたチェチェンの村に移送された。食べることにすべての知恵をそそぐ孤児たち。強制連行によって奪われた地の回復をかけてロシア人への攻撃を繰り返すチェチェンパルチザン。戦争のなかで真っ先に生きる望みを絶たれる社会の除け者たちの姿を作家の少年院体験をもとに記録した真実の物語。」(Amazonの内容紹介より)

コーカサスの金色の雲』書籍情報: http://gunzosha.com/books/ISBN4-905821-90-8.html

以下はロシア語通訳者の米原万里さんによる書評。

http://www.impala.jp/bookclub/html/dinfo/10306001.html

http://www.impala.jp/bookclub/html/dinfo/10301001.html


 さて、この『コーカサスの金色の雲』を著したのがアナトリー・プリスターフキンである。彼は自らの体験をもとにして1980年に本作を書き上げたが、ソ連ではタブーとされていた強制移住をテーマにしていたため、1987年に雑誌に掲載されるまでは原稿のコピーが多くの人々に回されて読まれていた。


 1987年といえば、85年のゴルバチョフ就任後、86年のチェルノブイリ原発事故をきっかけに思想統制・情報規制が次第に解かれ始め、ちょうどペレストロイカグラスノスチの機運が高まっていた時期でもある。政府のアフガニスタン侵攻を批判したかどで幽閉されていたアンドレイ・サハロフ博士も86年に釈放された。


 今回は、読売新聞がプリスターフキンにインタビューをした貴重な記事を見つけたので、それを部分的に転載して紹介したい(プリスターフキンの紹介や強制移住の説明などは省いてインタビューの部分のみ)。1987年8月、今からちょうど20年前のことである。 短い記事ではあるものの、プリスターフキンの思いやチェチェン人の反応などが本人の口から語られている点で興味深い。また、「表現の自由」が獲得されつつあったこの時代の希望のようなものも伺えるが、今また逆戻りしているロシアを見ると何とも言えない気持ちになる。

(藤沢和泉)


=(以下、部分的転載)====================

読売新聞(1987年8月19日、東京朝刊)

強制移送、雪中の死 スターリン負の遺産/「ソ連少数民族問題」作家に聞く


――少数民族問題をテーマに選んだのはなぜか。

プリスタフキン:小説に書いたことは皆自分で体験したことだ。私は12歳で孤児となり、戦争中を(チェチェン人の元の居住地)コーカサスで過ごした。7つの孤児院を転々とし、二度脱走もした。子供ながら無法者のグループに加わりもした。現地の生活をよく知っている。例えばこんな経験がある。コーカサスへ列車で送られる途中、私は一台の列車とすれ違った。列車の窓から子供の手がいくつものぞいていた。当時の私は「自分と同じように孤児院へ送られるのだな」と思っただけだった。しかし、後にチェチェン人のある映画監督と話しているうちに、彼が同じころ、列車でコーカサスからカザフへ移送されたのを知った。列車の窓に一心に手をのばしていたのは、強制移送されて行くチェチェン人の子供たちだったのだ。そしてこの子供たちの多くは、カザフの雪の中で死んだ。こういう経験が小説の下敷きになっている。経験を、子供の時の思い出にとどめないために私は書いた。


――大きな反響があったのではないか。

プリスタフキン:チェチェン人の読者から毎日手紙が来ている。あるチェチェン人は、本が手に入らないので図書館に何日も通いつめ、自分の手で全部筆写したと言って寄こした。村人全員で寄せ書きを送ってきた村もある。


――テーマゆえに、掲載までには困難があったと思うが。

プリスタフキン:最後の最後まで問題になった。一度は掲載が決まりながら、雑誌から削られてしまったこともあった。モスクワ市作家同盟の書記の一人は「チェチェン人にかかわる部分は全部削ってはどうか」と言った。「ズナーミャ」でも、いったんは編集員の手で3600か所の書き直しが行われた。最後に全責任をとったのは、編集長のグレゴリー・バクラーモフだ。


――クリミア・タタール人の帰還問題(※)について、見解を聞かせてほしい。

プリスタフキン:これは悲劇的な問題だ。タタール人の代表と話をしたが、中央アジアに残ってもいいという者もいたし、どうしてもクリミアへ帰りたいという者もいた。政府が帰還を認めても、(現在の居住者であるウクライナ人などから)反発される恐れもある。大切なのは、解決のための社会世論を作ることだ。タタール人は私たちと全く同様に教育ある人々だとの認識が大切だ。タス通信の(デモに対する)論調は、国民に、タタール人への反感の念を起こさせる。だが、望みもある。(デモの直後)私はミンスクの読者から手紙をもらった。「民族問題についての誤り、民主主義の欠如といったスターリン時代の残したキズは、今ではガン細胞のようになってしまった」と書いていた。(少数民族でない)白ロシア人がロシア人の私にこう言っているのだ。ソ連社会にこうした「新しい思考」が生まれてきていることを私は信じる。

(モスクワ・布施裕之特派員)

=(転載ここまで)=======================


クリミア・タタール人の帰還問題=クリミアのタタール人も中央アジア強制移住させられた民族のひとつであるが、名誉回復・帰還の許可が最も遅かった。