「ただ拷問から逃れること―それだけを考えていた」

2007年10月24日 ラジオ・リバティ
クレール・ビッグ

 アレクセイ・ミヘエフが、身に覚えのない犯罪を自白するために必要だったのは、警察による9日間の拷問だった。
 殴打と電気ショックに耐えられなくなり、ミヘエフは、故郷のニジニ・ノブゴロドで車に乗せた17歳の女性を強姦し殺害したことを認めた。
 ミヘエフは後に自白を検察庁で取り消した。そのため、彼は警察署に引き戻され、再び拷問が繰り返された。そして、彼は逃亡するために警察署の窓を壊したのだった。
 「ただ拷問から逃れること――それだけを考えていました」と、ミヘエフは淡々と語る。「逃げ出す直前に、私は椅子に座って、警官に肩を押さえつけられ、手錠をかけられていました。窓までは3メートル近く距離がありました。私は思いっきり飛び出して、最初にウィンドウヘッドをぶち壊したのです」
 31歳のミヘエフは、落下したときに脊椎を破損した。彼はもう二度と歩けない。
 彼が殺害したと自白した女性は、翌日に自宅に戻っていた。彼女は家族に何も告げずに友人の家に泊まっていたのだった。

正義を求めて

 尋問の手段として拷問が蔓延している国では、ミヘエフのようなケースはあまりにも「普通」の出来事だ。
 ミヘエフのケースが普通でないとすれば、それは、彼が法的な手段によって自らの被害を補償させることに成功したことによる。昨年、欧州人権裁判所は、ミヘエフに25万ユーロ(35万5000ドル)の賠償金を支払うようロシア政府に命じた。この額は、欧州人権裁判所がロシア市民に対してこれまで定めた賠償金の中でも最高額の部類に入る。

 勝訴までの道のりは険しかった。ミヘエフは、幾度も匿名による殺害の脅迫を受け、ロシアの司法システムと7年間必死に戦った。「まるで卓球のゲームのようでした。事件を調査してもらうために書類を申請し、事件が調査され、警官に関する証拠が見つからず、調査が打ち切られ、また訴えて、調査が再開され・・・その繰り返しです」
 地方捜査当局が調査を始めた回数と打ち切った回数は、合計23回に及ぶ。欧州人権裁判所がミヘエフの事件を審理することになってから、ミヘエフは初めてロシアの裁判所で供述できるようになった。
 2005年11月、7年以上の戦いを経て、ついに地方裁判所は2人の警察官に対して権力濫用の罪で4年間の禁固刑を言い渡した。
 けれども、2人はすでに釈放されたとミヘエフは言う。彼の口調には驚いた様子も特に狼狽している様子もない。彼が最も求めていたのは、ロシア政府の指導者が釈明をすることだったという。「私を直接拷問した加害者は有罪になりました。ですが、そうしたシステムを作り出している政府に責任があるということは、判決では一切言及されませんでした。唯一、欧州人権裁判所が、個人よりも政府に責任があるという裁定を下しました」

何千もの訴訟

 ロシア国内の裁判所の腐敗と無関心に苛立ち、ロシア人は次々と欧州人権裁判所に訴え出るようになってきている。
 昨年、欧州人権裁判所に提訴したロシア人は約1万2000人――昨年の全訴訟数の五分の一に及ぶ。訴状は、警察官による虐待が最も多い。
 ロシアの警官はあまりにも頻繁に拷問を用いるため、ミヘエフに対して行われた拷問手法には「プーチンへの電話」という名前さえついている。被害者の耳たぶに針金をつけて電気ショックを与える拷問だ。
 被害者の顔を床に押しつけて手足を引っ張る「クロコダイル」という拷問や、被害者の腕を背中の上でねじ上げる「ツバメ」という拷問もある。おそらく最も評判が悪いのは、被害者の顔にマスクを押しつけて窒息させる「小象」という拷問だ。
 拷問がどれだけ露骨に行われたとしても、欧州人権裁判所で勝訴することはもとより、欧州人権裁判所に訴え出ることさえ、簡単ではない。さらに、費用もバカにならないとミヘエフは指摘する。ミヘエフが勝訴することができたのは、「彼に貴重な法的・財政的支援を与えてくれた「反拷問委員会」という地元の人権団体に負うところが大きいという。
 裁判所に訴えられた事件のうち、実際に判決が下されるのは、ほんの一部にすぎない。大半の事件は、法的な不備や証拠の不足によって取り下げられてしまう。さらに、申請が増加したことによって、原告は判決が下されるまで何年も待たなくてはならない。たとえば、ミヘエフは7年間待ち続けなければならなかった。
 けれど、そうした困難があっても被害者が正義を求めることを思いとどまらせることはできないとミヘエフは言う。「自分自身のために戦うのを恐れてはいけません。現実に勝てる可能性があるのですから」
 ロシア政府に勝訴したからといって、彼の足が元に戻ることはない。けれど、勝訴によって、ミヘエフは尊厳を取り戻し、治療を受けるための賠償金を手に入れた。判決が下される以前は、彼は月々100ドルにも満たない年金でやり繰りをしなければならなかったのだから。
 そうした状態で、ミヘエフは勝訴したのだった。それは彼に喜びと苦しみをもたらした。「私はロシアから完全に希望が失われているわけではないことを知りました。そして、同時に、言い様のない怒りを覚えました。判決がロシアの裁判所ではなく、欧州人権裁判所によって下されたということに」
 ミヘエフの裁判によって、彼の街、あるいはロシアで、警察官による拷問は減ったのだろうか?とてもそうは思えない、とミヘエフは言う。彼によると、ニジニ・ノブゴロドでは、若い男性が拷問から逃れるために警察署の窓を壊す事件が先月も起こったという。
 反拷問委員会によると、ミヘエフが勝訴した後、欧州人権裁判所では、拷問を行った警察官に対する有罪判決が急増したという。ただし、委員会によると、これは警察による拷問が増えたためではないという。増加しているのは、―ミヘエフのおかげで―加害者を裁くことができることを知った被害者の数である。

原文: http://www.rferl.org/featuresarticle/2007/10/2b0c6a68-453a-4af9-8586-8bc997c3ab81.html