反体制派を暗殺せよ

[もう一つのロシア 12/9]
原文: http://www.theotherrussia.org/2007/12/09/to-murder-a-dissident/

 元FSB 将校ミハイル・トレパシキンは、FSBの元同僚が三度にわたって彼をアレクサンドル・リトビネンコを暗殺するための「国家作戦」に誘ったことを明らかにした。トレパシキンは、政治的な動機によると見なされている刑期を終え、11月30日に釈放された。トレパシキンは、英国のサンデー・タイムズのインタビューに答えて、最初の誘いがあったのが2002年の9月であり、リトビネンコの元同僚のヴィクトルが話を持ちかけてきたと主張した。

 「ヴィクトルは、リトビネンコとベレゾフスキーらを徹底的に叩きのめすための精鋭グループを立ち上げたと私に言いました。彼は、モスクワ在住のリトビネンコの親族を探し出すために、私の助力を求めました。私は、彼がリトビネンコに圧力をかけるために卑劣なことをしようとしているのではないかと思いました」(トレパシキン)

 その二ヵ月後、ヴィクトルはトレパシキンのもとを再訪した。このとき、ヴィクトルは、トレパシキンに対して、FSBがリトビネンコと米国在住の歴史学者ユーリー・フェリシチンスキーを「黙らせる」計画を立てていることを告げた。フェリシチンスキーは、モスクワの連続アパート爆破事件にFSBが関与していると主張した暴露本『ロシア闇の戦争』を、リトビネンコと共に執筆した人物である。

 「ヴィクトルは、調査を行うために、フェリシチンスキーがいるボストンに特殊組織を派遣したことを教えてくれました。ますます状況が深刻になってきたと思ったことをはっきりと覚えています。FSBが二人に対して何かをしようとしていると思ったことも。私はリトビネンコに警告を出し、彼もそれを深刻に受け止めていました」(トレパシキン)

 ヴィクトルとの三度目の会合は2003年の初頭に行われた。このとき、ヴィクトルは、トレパシキンがロンドンに行ってホテルでリトビネンコと会うことを、FSBの連絡係が求めていると述べた。「ヴィクトルが言うには、他のスパイがリトビネンコを見つけて、彼を四六時中監視することができるように、私はただ彼に会いさえすればよいということでした」(トレパシキン)

 トレパシキンは、リトビネンコが2006年に毒を盛られたことを知ったとき、即座に「ヴィクトルが私に言っていたことがついに現実になってしまいました・・・最初の瞬間から、私はリトビネンコの死の背後にFSBがいることを確信していましたし、ヴィクトルが言っていたことがハッタリでなかったことを思い知りました」と述べている。リトビネンコは、2006年11月に放射性ポロニウムを盛られ、死の間際にはウラジーミル・プーチンが事件に関与しているという告発をした。

 「こんなことは国家機関の助力なしに実行できるはずがありません。リトビネンコは、復讐のために、そして、FSBを批判する者に対してどこに逃げようと安全な場所はないという警告を送るために、殺されたのです。」(トレパシキン)

 11月30日、トレパシキンは数年の刑期を経て釈放された。二年間にわたって、友人や家族はトレパシキンとの面会を禁じられていた。そして七ヶ月間、彼は独房に入れられていた。

 トレパシキンは、今では伝説となっている1998年の記者会見に参加した一人である。記者会見では、FSB将校の一団が、組織犯罪と暗殺に関与しているとして、自分たちの上官を告発したのだった。リトビネンコは会見を取り仕切った一人だった。

 2002年には、教養ある弁護士でもあるトレパシキンが、リトビネンコに代わって主張を始めた。トレパシキンも1999年にモスクワで起こったアパート連続爆破事件の調査に深く関わっていた。爆破事件は、第二次チェチェン戦争を正当化する道具として利用され、決して徹底調査がなされることはなかった。

 トレパシキンは、2003年10月22日―爆破事件捜査の裁判の前日―に逮捕された。トレパシキンは、ロシア治安当局の関与を示唆する調査結果を報告することになっていた。逮捕理由は、彼の車の中で銃が発見されたというものだった。2004年5月19日、トレパシキンは武器の不法所持と国家機密漏洩罪で有罪判決を受ける。そして4年間の禁固刑が下された。

 「私はこれまで何度も脅迫され、殺されてしまうのではないかと思ったことも何度もあります。ですが、私は負けません。彼らには私を黙らせることはできません。私は外国に逃げるつもりもありません。たとえ危険を感じていても、告発し続けることが私の義務だと思っています」