なぜプーチンはロシアで人気が高いのか

稲垣 收(フリー・ジャーナリスト)

なぜプーチンはロシアで人気が高いのか(1) ―石油バブルでウハウハ?の資源大国ロシア

 最近、友人から質問を受けました。

 「プーチン大統領のロシアでの支持率は8割、プーチン政権下でロシアの経済は花盛り、ロシア国民に大国のプライドを取り戻させた指導者だから人気が高いとCBSドキュメントでやってたけど、ホント?日本では、プーチン政権 は問題点が色々あって独裁的、みたいな情報をよく耳にするので、そんなに人気があるなんて知らなかった。その番組では、『国民の関心は経済の安定にあって言論の自由にはない』とも言ってたし」というものです。
 年末のTIME誌でもプーチンは「今年の人物」(Person of the Year)に選ばれましたね。(その表紙には「ウラジーミル・プーチン、新ロシアの皇帝」という文字もありましたが……)
 たしかにプーチン大統領はロシアで人気があります。しかし、それはちょっと普通の民主主義国家で政府のトップが人気がある、人望があるというのとは、かなり違った原因があります。
 順番に見ていきましょう。

プーチン政権下でロシアの経済は花盛り」?

 いま、ロシアは石油バブルといわれ、モスクワに行ってみると、10年前に比べ、レストランやスシバー、ショッピングモールなどがものすごく増え、ネオンも増えてキンキラキンの状態になりました。(物価もものすごく上がり、モスクワに行ったオランダ人が「アムステルダムより物価が高い」と驚いていました。)
 さて、ではなぜロシア経済は一見、よくなったのでしょう?
 これはまず、ロシアはもともと資源大国で、石油や天然ガスなどの宝庫であるということがあります。そして国際石油価格が上がっているここ何年か、ロシアは石油バブルのような状態だと言われているのです。石油だけでなく、天然ガスも、ヨーロッパ諸国に売りまくってウハウハ状態です。
 では、プーチン以前はどうだったのでしょう? そんなに経済はひどかったのでしょうか?

なぜプーチンはロシアで人気が高いのか(2) ―プーチン以前のロシア経済は?

 さて、プーチン以前のロシア経済はどうだったのでしょうか?
 まず、ちょっと時間を遡って、エリツィンの前、ゴルバチョフペレストロイカの頃から始めます。
 ソ連の末期のゴルバチョフ政権下で、それまで限界に来ていたソ連型経済はついに破綻しました。(これにはソ連という国のいろいろ困ったシステムが原因しているのですが、長くなるので、これはまたの機会に説明します。)
 その後エリツィン政権になって、経済の建て直しを図ろうと、国営企業の民営化を急速に推し進めました。しかし、あまりに大急ぎでやって大失敗し、本来は資源があって豊かなはずのロシアは、グチャグチャな貧乏国になってしまったんです。
 これにはソ連が崩壊して、それまで経済的にもパートナーだった旧ソ連諸国(バルト三国やら、グルジアやら、ウクライナやらロシアも含めると全部で15の共和国がありました)がバラバラになって、互いの経済・産業的協力や連携がうまくいかなくなったことも関係しています。
 で、ロシアが貧乏国になったという事実に、それまで「ロシアはアメリカと並んで世界の2つの超大国の1つである」というプライドを持っていたロシア人たちは、ものすごい屈辱を感じたんですね。
 ロシアで民営化を進めたのはエリツィンとその側近たちですが、彼らは西側の国際通貨基金IMF)などの指導に一応、従ってやっていたわけです。しかし、大失敗した。
 それまで共産党独裁政権だったソ連が崩壊してロシアが独立し、民主化されて、「これまでと違い、西側に向けても開かれた国になったのだから、明るい未来が待っているはずだ」と多くのロシア国民は期待していたんです。
 しかし、フタを開けてみたら大混乱が待っていた訳です。砂糖を買うのに5時間も行列したり、ガソリンを買うのに6時間も待ったりしている人を僕自身もモスクワやサンクト・ペテルブルグで目撃しました。91年の夏、国営の食料品店には腐りかけたジャガイモがちょっと転がっているだけで空っぽでした。私営の店に行けば西側諸国から輸入された品々が何でも揃っていましたが、一般庶民の給料では手が出ませんでした。
 そんな中でコネのある者、目端のきく者は、民営化された企業で社員全員に配られた民営化クーポン(株のようなもの)をわずかな金額で買い集めて大企業のオーナーや大株主に納まったり、国境が西側に開放されたのをチャンスと見て、貿易会社を起こし、輸出入で大もうけしたりしました。
 こうして、ニュー・ロシアンとよばれる成金や大富豪が誕生します。
 しかしフツーの人たちの生活は、物価も爆発的に上がっていくのに給料は上がらないし、それどころか不払いが続いたりして(特に教師や炭鉱労働者、軍人等)、極貧生活に落ちる人が激増しました。 何しろ物価が一気に100倍になったりしていましたからね。
 今の日本がどんどん格差社会になってきていますが、ロシアではそれ以上に、ものすごい格差が広まったんですね。
 そういう状況下で、民主主義や自由経済、そして西側諸国に対する不信感も頭をもたげてきたのです。その結果、民族主義も強まり、ユダヤ人やコーカサスカフカス)系の人々――チェチェン人、グルジア人、アルメニア人、アゼルバイジャン人などコーカサス山脈地方出身の人たち――に対する差別も激しくなっていき ました。
 ここでチェチェン戦争が始まる下地ができてきたのです。

なぜプーチンはロシアで人気が高いのか(3) ―エリツィンも独裁化して……

 (2)までに、91年のソ連崩壊以降、拙速な民営化による経済の大混乱と、物価の大高騰、生活水準の激悪化、民主主義や西側諸国への不信感が頭をもたげ、それとのからみで、民族主義が頭をもたげ、チェチェン人をはじめとするコーカサス系など少数民族への差別や偏見が高まったとを書きました。
 これらのことが94年に始まる第1次チェチェン戦争の下地になっているのですが、チェチェンの独立宣言について話すため、少し話を戻させてください。
 ロシアがソ連から独立を宣言してソ連が崩壊した91年、ロシアの中にある1共和国だったチェチェンは、ロシアからの独立を宣言しました。
 ちょっとややこしいですね。説明します。
 ソ連の中にはロシアやウクライナ、バルト3国、グルジアなど15の共和国があったのですが、そのそれぞれの共和国の中に、ソ連時代は自治共和国とか自治州と呼ばれていたものがあったのです。つまり、ソ連という大きな国の中にロシアなどの共和国があり、そのロシアなどの中に、さらに小さな自治共和国があったわけです。つまり国の中に小さな国がたくさんあり、その小さな国の中にさらに小さな国がたくさんあるという入れ子構造になっていたわけです。
 ロシア土産でよくあるマトリョーシカというロシアこけしがありますが、あれと同じ構造ですね。(僕もソ連崩壊の頃、1番外側がエリツィン、その中にゴルビー、さらに中にフルシチョフスターリンレーニンと続いていく政治家マトリョーシカをよく買ってきました。それはさておき……)
 しかし、日本での県の成り立ちと、チェチェンがロシアの中に組み入れられた経緯はかなり違うんですね。それは、最初はモスクワ周辺の小さな領土しか持たなかったロシア帝国が、植民地政策によってどんどん版図を拡大していった結果だったのです。

なぜプーチンはロシアで人気が高いのか(4) ―征服され、弾圧・差別され続けたチェチェン

 チェチェン人は19世紀にロシア帝国コーカサス地方(ロシア語ではカフカス地方)を侵略・征服した際に、他の民族が次々に降伏する中、最後まで戦い続けた民族ですが、ついには彼らも屈服を余儀なくされます。(文豪トルストイも若い頃、コーカサスに兵士として行き、晩年になって、誇り高きチェチェン人の英雄ハジ・ムラートの物語を書いています。この作品『ハジ・ムラート』はトルストイ全集の後期作品集にも収められていますので、ご興味のある方は図書館でどうぞ。ドラマチックな名作です。)
 そういう歴史と不撓不屈の精神を持った民族だけに、チェチェン人はソ連政権になってからも、ことあるごとに弾圧され、スターリン政権下では民族全体が中央アジア強制移住させられてしまいました。(このときチェチェン人は、ナチがユダヤ人移送に使ったのと同じような家畜運搬用列車に詰め込まれ、水もロクに与えられず何日も運ばれたため、多くの人が途中で絶命したと言われています。これはロシアの作家A・プリスタフキン原作の映画『コーカサスの金色の雲』にも描かれています↓ )
 http://www.saturn.dti.ne.jp/~rus-eiga/arc/films/k/kinirono/

 チェチェン人はスターリンの死後、故郷のチェチェンに戻ることを許されますが、この悲劇の歴史はチェチェン人の間ではけっして忘れられることはありませんでした。それ以外にも、ソ連体制の中でも、チェチェン人はさまざまな差別を受け、いい職に就けなかったり、優秀なスポーツ選手でもソ連代表にはなれなかったりという目に遭っていましたしね。(これはハッサン・バイエフ著『誓い』の中にも出てきます。)
 そして91年、ソ連崩壊で混乱状態にあるとき、ロシアなどがソ連から独立を宣言したのを見て、「よし、これはチャンスだ!俺たちもロシアから独立してやる!」とばかりに独立宣言をしたんですね。
 チェチェンには石油もあったので、独立しても経済的にはやっていけるだろうという目算もありました。

エリツィンの独裁化→第1次チェチェン戦争のはじまり

 これに対してエリツィンは、ソ連崩壊直後はいろいろ忙しかったのと、たぶん「民主的なロシアの新しい指導者」という西側の持つイメージを多少は大切にしたい思いもあったのかもしれませんが、最初はチェチェンに対し、あまり過激な行動は取りませんでした。
 しかし、そのエリツィンも、次第に独裁的傾向を強めていきます。
 93年には、元副大統領だったルツコイをはじめとする“反エリツィン派”が立てこもったロシア最高会議ビルを、なんと戦車で砲撃させて屈服させました。
 このビルは、91年の8月に、ソ連保守派が起こしたクーデターの際、エリツィン自身が当時は盟友だったルツコイらとともに立てこもった場所だっただけに、この暴挙には世界が目を見張りました。(このビル砲撃の模様は日本でもテレビで報道されましたね。このときは200人以上の犠牲者が出ています。)
 そして94年になるとエリツィンチェチェンにロシア軍を送り、チェチェン独立派を叩き潰そうとします。これが第1次チェチェン戦争のはじまりです。

なぜプーチンはロシアで人気が高いのか(5) ―第1次チェチェン戦争

 さて、94年、エリツィンがついにチェチェンロシア連邦軍を派遣し、いよいよ第一次チェチェン戦争がはじまりました。
 しかし、生まれ育った野や山を知り尽くして地の利がある上に、やる気のないロシア兵と違って決死の覚悟で戦うチェチェン独立派のゲリラ戦法に、ロシア軍は当初から大苦戦を強いられました。
 さらに現地に入ったロシアや外国のメディアも、ロシア軍の無差別攻撃によってどれほど多くの一般市民(ロシア系も多い)や、ロシア兵が悲惨な死に方をしているかを、テレビ・新聞でガンガン報道し続けたため、ロシア各地でも反戦運動が盛り上がってきたのです。(このとき、「ロシア兵士の母の会」というグループが、戦場から息子たちを取り戻すためチェチェンまで平和行進しました。そして首都グロズヌイまで辿り着くと、命がけでやってきてくれた平和の使者だということで、チェチェンの女性たちから歓迎を受けます。そのときのことは、この行進に同行した僕の友人のジャーナリスト、林克明氏が『カフカスの小さな国』〔小学館〕に書いています。)
 そして96年、ブジョンノフスクというところにある病院をチェチェン・ゲリラが占拠し、「人質解放の条件は停戦だ」としたため、ロシア政府はしぶしぶ停戦条約を結ぶことになるわけです。
 ここで、“大国”ロシア人のプライドは、またもや激しく傷つけられたわけです。

なぜプーチンはロシアで人気があるのか(6) ―第1次チェチェン戦争敗北とメディア規制の強化

 さて、(5)では第1次チェチェン戦争で、強大なロシア連邦軍が敗れたことを書きましたが、このロシア軍の敗北は、ベトナム戦争でのアメリカ軍の敗北によく似ています。
 祖国を守るために命がけで戦う小国の兵士と、何となく大義が感じられず、気の乗らない大国の兵士……
 地の利を活かした、神出鬼没のゲリラ戦法。
 兵器でも兵員数でも圧倒的にまさるはずなのに、大国の軍が勝てない現実……
 さらに、従軍したメディア(特にテレビ)がお茶の間に伝える悲惨な戦場の映像に、国内で起こった大規模な反戦運動……
 このように第一次チェチェン戦争時のロシアと、ベトナム戦争当時のアメリカには、非常に多くの共通したものが見られます。
 その後アメリカ政府はベトナムでの「失敗」に学び、ブッシュ父の湾岸戦争では、従軍メディアを徹底して検閲し、自分らに都合の悪い報道はさせないようにしました。(このとき、アメリカのニュース番組だと検閲済みだということを示すcensoredという文字が、一応画面の端に出てたりしましたが、日本のニュース番組ではそれすら見せずに、あたかもすべて「中立公平」な報道であるかのように放送していたのが、非常に情けないですが……)
 今回の息子ブッシュによるイラク戦争でもそうですね。
 従軍メディアは米国の「大本営発表」だけを垂れ流す御用マスコミにすっかり成り下がりました。
 さらに、都合の悪い報道をする記者たちのいるビルには、米軍が「誤爆」して殺したり…
 ロシアもこれと同じことを、99年から始まる第2次チェチェン戦争で行ないます。
 メディアをコントロールし、チェチェンの戦場に入ろうとするジャーナリストは徹底規制。
 何とか潜り込む記者は失踪……それでもしぶとく取材し続ける記者は暗殺……(ノーヴァヤ・ガゼータ紙のアンナ・ポリトコフスカヤさんなど)のように暗殺……
 しかし話がちょっと先に進みすぎました。
 第1次チェチェン戦争がロシア軍の敗北で終わったところに話を戻しましょう。

なぜプーチンはロシアで人気が高いのか(7) ―“チェチェンのテロ”と戦争を利用して大ブレイクした無名の男

 さて、話はロシアが96年に第1次チェチェン戦争に敗れたところからですね。
 ソ連崩壊と経済の大混乱で、超大国から貧乏国家に転落したロシア国民の“大国としてのプライド”は、この敗戦で、またしてもズタズタに傷つけられました。
 そして、「ロシアはチェチェンという帝政時代に獲得した“領土”を失うかもしれない。チェチェンの独立を許したら、ほかにも独立を宣言する共和国がロシア連邦内から出るはずだ。もしそうなったら、ロシアはバラバラになる」という恐れも抱きます。
 これが96年の停戦以来、ロシア国民の頭にありました。
 そもそも91年のソ連崩壊に関しても、ロシア人は15あったソ連の共和国すべて(ウクライナベラルーシ、バルト3国、モルドヴァグルジアアゼルバイジャン等々)を“自分の国”“自国領”と感じていたので、ロシア以外の共和国が“別の国”になってしまったことに、大きな喪失感を感じていたのです。
 もっと言うとソ連の領土だけでなく、東欧諸国も、ロシア人は自国の支配下、領土だと考える傾向がありましたしね。
 いま、外国を相手に商売をしている僕のモスクワの友人たちの中にもそういう考えの人たちがけっこういます。(それらの国に行くのが前ほど楽ではなくなり、たとえばバルト3国などではロシア系市民に対する差別もはじまったり……といったこともあります。まあ細かくなりすぎるので、詳細はまたの機会に……)
 そして、1999年。
 エリツィンの後継者として、KGB出身のウラジーミル・プーチンが、まず首相になります。
 しかし、ロシアでも外国でも彼はほとんど無名の存在でした。
 KGBの中佐として、かつて東ドイツにいた彼は、それまであまり政治の表舞台に出たことがなかったのです。(サンクト・ペテルブルグのサプチャーク市長の補佐をしていた頃、貧困層を救済するための食料輸入基金プーチンが着服したという疑惑がありますが、もちろん、もみ消されています。サプチャーク市長はエリツィンの後継者と目されていた時期もありましたが、謎の死を遂げています。)
 さて、99年9月に、ロシアで大事件が起こります。
 アパート連続爆破事件です。モスクワをはじめとするロシア各地で、アパート(団地)が次々と何者かによって爆破され、300人を超える死者が出たのです。
 この事件で、プーチンは一躍有名になります。
 事件が起こるとプーチンはテレビに登場し、「犯人はわかっている。チェチェンのテロリストだ!」と何の証拠もないのに断定しました。
 そしてテレビは連日、爆破現場の悲惨な映像を繰り返し流して人々の憎悪と恐怖をかきたて、プーチンはテレビで「必ずテロリストを叩き潰す!便所の中に叩き込んでやる!」と力強く宣言、チェチェンの首都グロズヌイへの猛烈な空爆を開始します。
 これが第2次チェチェン戦争の始まりです。
 無差別空爆により、まもなく首都グロズヌイは元の姿をまったくとどめぬほどに荒れ果て、陥落します。
 そしてプーチンは一躍「勇敢で強い最高の指導者」「失われかけた領土を回復した英雄」として脚光を浴び、翌年3月の大統領選挙で圧倒的な得票率で当選するのです。
 これが「ロシア国民に大国のプライドを取り戻させた指導者だ」と彼が呼ばれる理由です。
 大統領になるとプーチンは、テレビなど主要メディアの規制を始めます。
 テレビ局の社長に脱税その他の容疑をかけ、国外追放にしたり、逮捕したりして、自分の息のかかった人間を社長に据えました。
 ユコスをはじめとする石油などの大企業のトップも同じようにして逮捕・追放したりして、自分の子分にすげかえました。
 その後、ロシアでは「チェチェン人のしわざ」と言われるテロが、さらに何度も起こります。
地下鉄爆破事件、モスクワ劇場占拠事件、航空機爆破事件、北オセチアの学校占拠事件……
 今からちょうど1年前にロンドンで暗殺されたリトビネンコは、これらのテロの背後にはFSB(新KGB)がいると主張していました。
 彼の著書『ロシア闇の戦争―プーチンと秘密警察の恐るべきテロ工作を暴く』には、そのことが詳細に事実を列挙して書かれています。特にアパート連続爆破事件では、リャザンという街で、爆薬をしかけているFSBの職員が逮捕される事件まであったのです。しかしFSBは「あれは訓練だった」とシラを切りましたがどう考えてもおかしいとしか言いようがありません。
 詳しくは同書をご覧ください↓
『ロシア闇の戦争―プーチンと秘密警察の恐るべきテロ工作を暴く』
 実際、このような大テロ事件が起こるたびに、プーチンは「テロと戦うには、権力を集中させることが必要だ」と自分およびFSBなど治安機関の権力を強化してきたのです。
 テレビをはじめとするマスコミを統制し、それまで選挙で選ばれていた州知事を大統領である自分が直接任命できるようにし、小選挙区制を廃止、7%以上の得票率がないと議席が獲得できないという野党がまったく勝てないシステムをつくり……
 そうしたことをやっても、テレビなどの主要マスコミはまったく批判しません。もはや操り人形に過ぎないからです。
 唯一激しくプーチン政権を非難し続けたアンナ・ポリトコフスカヤ記者は、06年9月に暗殺されました。
 「“チェチェン人によるテロ”の多くがFSBによるもので、アンナ記者を殺したのもプーチンの意向だ」と公的に発言していたリトビネンコも、ちょうど1年前に亡命先のロンドンで殺されました。
 こうして邪魔者はすべて消し、マスコミ、特にテレビでは都合の悪いことは報道させず、礼賛的な番組作りをさせ……
 言ってみれば、北朝鮮とか、スターリン時代に近いやり口ですね。(スターリン時代には「偉大なる父スターリン」を讃えるスターリンカンタータなる歌も作られ、少年少女が歌わされていました。まあ、スターリン時代よりは、今のロシアの方がまだ、移動の自由や旅行の自由、そして、多少の言論の自由や、わずかの報道の自由もありますが……これから、どうなっていくのやら)
 こういうマスコミ操作と、英雄としての自分を演出、そして石油・天然ガスバブルによる好景気、さらにエリツィン時代にはできなかった、企業からの税の徹底した取立てによる国庫の安定などもあり、プーチン人気は高くなっているのです。
 しかし、支持率などの数字は、かなり操作されている可能性があります。
 モスクワの劇場占拠事件で、特殊部隊が使った“神経ガス”で人質が120人も死亡した直後も、「政府を支持する」という世論が多かったですが、ガスによる死亡者数は、このアンケート調査の時点で伏せられていました。
 学校占拠事件のときも当初人質の数は300人くらい、と実際の4分の1くらいに発表されていましたし。
 ロシアで政府が公表する数字というのも、どこまで信用できるのか謎です。
 ともあれ、先の議会選挙ではプーチン大統領自身が、与党である「統一ロシア」の候補の一人として立候補するという“荒ワザ”というか、他の国なら違法なんじゃないの?と思えるウルトラCを使って議席を獲得、まもなく大統領としての任期が切れるのですが、3月の大統領選の候補に、聞きわけがよさそうな子分のメドベージェフを候補として指名して、その後は自分は首相になって権力を温存するという路線を組んでいます。
 これから、ますますロシアの闇は、深まる一方だという気がします。
 現在、渋谷のユーロスペースで公開中の『暗殺リトビネンコ事件』には現在のロシアがどれほど恐ろしい国になっているのかが、具体的に描かれています。なかでも恐ろしいのが、プーチン・ユーゲントとも呼ぶべき青年愛国者組織“ナーシ”です。
 彼らは外国人に地下鉄などで襲い掛かったり、野党の集会などで暴れたりしています。
 現代ロシアの、貧しく教育のない若者たちの怒りや鬱憤の捌け口を、民族主義と排外主義という受け皿に受け入れ、政権を支える力のひとつとする手法です。
 まさにナチの時代のヒトラー・ユーゲントのようです。
 われわれ日本人は、隣国ロシアのこうした現状をウォッチし続けると同時に、日本でもロシアのように政府がメディアを使って国民を操ったり、排外思想を強めたりしていくことを警戒し、監視していかなくてはならないでしょう。
 ロシアで起こっていることは10年後、いや5年後の日本でも起こり得るのですから。
 長い記事を最後まで読んでいただき、ありがとうございます。