ナースチャ・バブーロワのこと

(ノーヴァヤ・ガゼータ1/23) 1月19日、モスクワ市立第一病院。外科救命第24部。夜7時。二人の捜査官が入り口で見張っていて、頑としてだれも通そうとしない。そのうちの一人がうっかり漏らしたところによると、見張りがつくようになったのは、今日になってだという。

 受付のそばには若者たちが群がっている。ナースチャ(ナスターシャ・バブーロワの愛称)の友人たちだ。彼らもまったく通してもらえない。警備員たちが何も知らされていないうちは通れたので、そのとき一人の女友達が入った。そして手術をしたことを知り、去っていった。
 若者たちも去っていく。

 病院の「案内係」は何も案内してくれない。それにもうじき8時という遅い時間だ。 窓口の女性はいろいろこちらの言うことは聞いてくれたが、何もお役に立てないという。「明日11時すぎに電話しなさい。今夜は彼女のことはなにも分からない。こちらの情報は一日一度しか更新されません」答えるのもうんざりです。電話が切れた。

 明日の午後1時から2時まで救命部で医師たちと面談できる。

 警備員たちの抵抗にもかかわらず、救命の窓口に入り込めた。看護師たちはこちらの立場になってくれて、編集部の電話番号を走り書きしたメモ帳の切れ端を受け取ってくれた。念のために。何かもうひとりの看護士に話している。もっと近寄る。「もちろん、これは受け取るけれど、身内の人たちに渡せるかどうか、分かりませんわ。まだ誰も来ていないし」という。

「でも、編集部では彼女の状態について何も知らないんです」
「祈るしかありませんね。ずっと重態が続いてます。手術は終わりました」

 仲間はお互いに、今夜はなんとつらい日なんだと語りあう。テレビを見ればマルケーロフについてのニュースばかり。

 編集部に連絡する。「ずっと重態だそうです」その10分後に、SMSの連絡が編集部から入った。「彼女は死んだ」

 なぜか電話をかけなおす・・・いまさら何の意味もないのに、詳しいことを訊こうとする・・・

 一時間後、やっとネットにつながり、彼女の写真を見つける。まず、なによりも彼女がどんなふうだったかを見なければならなかった。写真を見て、そうだーーもちろん私たちはモスクワ大学のジャーナリスト学部でおなじ学年なんですもの、それは夜学で、わたしはラジオ、彼女は新聞。一年生のときからずっとそうだった。

 彼女は目立った。とてもやせていて、なぜかいつもはちまきをしていて、やたらにしゃきっとしていた。すこし、プライドが高すぎる感じがしていた。と言っても、一度も話を交わしたことはない。なにかで偶然声を掛けたことはあるけれど。その時は彼女の名前だって知らなかった。
 最近、学科で彼女を見なかった(私もそこにあまり行っていないかったし)。「ノーヴァヤ」でもすれ違いだった。たった一度、彼女が会社から地下鉄に、わたしは地下鉄から会社にむかうところだったことがある。

 今、私たち5年生は冬季試験期で一番忙しい。私たちは二部なので、昼の連中をバカにしている。ヤーセン・ニコラエヴィチは、私たち夜間学生を誰よりも大事にしてくれている。私たちは図太くて、スノッブで、シニカルだ。試験をさぼってみたり、試験をさぼる教師への苦情を学部に訴えてみたりする。それに、卒業までにまだあと一年以上もある。

 2009年の1月19日。あの日は定期試験だった。

ーーどうしてノーヴァヤ・ガゼータが好きなんですか? そこで仕事をするつもり? と準教授に質問された時には、私は事件のことを、何が起きたかをもう知っていて、編集部からは病院に急行するよう指示されていた。わたしには何も言えなかったが、準教授は活躍を祈ってくれた。

 夜遅く、私はふと気づいた。彼女は私たちの学年で最初に消えてしまった人なのだということに。

ヴェーラ・チェリシチェワ
http://www.novayagazeta.ru/data/2009/004/37.html