私が若いころ、とても気に入っていた作家I。その頃流行りだった、グレイと白、曲線とガラスを多用した様式のビルの一階に埋め込まれた大きなギャラリーーーと美術館の中間をいくような建物の中で、Iの作品が展示されるというので、夏の近いその日、私は歩いて出かけたのだった。

 入り口のところで、薄暗い床の上で、コンクリートでできたつめたい椅子に腰かけるIを見た。丸い大時代な眼鏡に、白髪、ひげ。

 私は作品を見る。長身の男が歩いてきて、なぜか私に最新作の説明を求める。それも、かなり細かい質問を交えて。木製の模型。四角柱の上部は角錐形になっていて、ていねいに白い塗装がされている。

 外国のスパイ活動をテーマにした小説に出てくる、近未来の一種の**ーーというようなものだと、私は曖昧に答える。どうして答えなければならないのかもわからないが。長身の男は満足せず、どうしてこんな形なんだ、この角錐の角度の理由はなんだ、と苛ついている。

 そうして最後にひとこと、こうつぶやいて帰る。「あなたは、あと十年の人だからな」と。私はこの人違いを怒ることはやめていた。そして、「十年の人」という言葉の意味を、ぼんやりと考えながら、ギャラリーの中を、作品から作品へと歩いていた。

 子どもを三人も連れた、小柄で浅黒い肌の女がやってきた。この人も、Iのファンであるらしく、この建物の乾いてひんやりとした風情を満足そうに眺めた。先の男も、この女も、Iを尊敬し、あるいは妬んでいることを私は感じ取っている。その二つはよく似ている。

 ともあれ少女のように小柄な女は、大汗をかきながらどんどん作品の並ぶ中に入ってゆき、無遠慮な大声でこう言った。「ああ! 昔はこんな建物がいっぱいあったねえ! 見た目はきれいだけどボロボロだ!」

 「あれはね、どんなところでもすぐ出口をみつけちゃんだよ。こんなに入り組んだ建物でもね!」と、彼女の夫らしい、これも浅黒い肌の、Tシャツ姿の男が、どなるような大声で言う。これもさっぱり、なにをさしているのか、私にはわからなかった。

 かれらの子どもたちは、どうしてか私に興味を向けて、しきりに手に持っていたダンボール製のオブジェのようなものを見せたがった。乗り物とも、動物ともつかないものだ。

 女は私に気がつくと、「これね、彼が作ったんだ! よかったらサインしてあげてくれなかしら!」 と言う。私は鉛筆を取り出して、何のことやらわからないままに、その場で思いついた名前を書き付けた。

 そんな風に話しかけられたから、私は先の「十年の人」とはどんな意味なのだろうかと、女に尋ねてみた。もう作家本人はいなくなっていた。

 「それは「六十歳になったらもう最後の作品にする」ってIさんが言っていたからだよ」と、また大きな声で女は言う。それはIらしいと思いながらも、私は首を傾げずにはいられなかった。そういう約束事は作家を幸せにするものだろうか。