展覧会を開きます。
2009年10月6日(火)〜11日(日)まで、川崎市のアートガーデンかわさきで個展を開きます。
質的に異なる生活 大富 亮 アトリエ展開催にあたって
『質的に異なる生活 大富亮アトリエ展』
会場 アートガーデンかわさき 第2展示室(川崎駅東口タワー・リバーク3F)
http://www.city.kawasaki.jp/sisetu/artgardn.htm
2009年10月6日(火)〜11日(日) 10時〜19時
初日15時より開場 最終日は16時まで
会期中、会場で公開制作をします。
「本当に豊かな人は、他人を攻撃したりしない」
あるきびしい状況のなかで、こう語った人がいる。この言葉を聞いたとき、私が絵を描く理由がひとつ増えた。
よく「絵画は可能なはずではないか」と自問する。
学び舎を出てから今まで、私が感じてきたことは、それまで考えていたより、社会では絵画というものは軽んじられ、居場所を与えられていないこと、ときおり見かけるそれらしきものは、「癒し」や「祈り」といった陳腐な言葉に回収されることをみずから求めるものばかりで、アグレッシブな、あるいは進歩的なやりかたと目的を備えた作家を見ることは少なかった。
人々の目に触れては消えていく芸術作品たち。ギャラリーで気に入った絵画の前に立ち、その中の世界を感じるとき、私もある種の感動を抱いて家路につく。しかし、それ以上のものではない。私たち自身の認識の枠組みを変えるような作品。「元気をもらった」などという消費のされ方ではなく、翌日から世界の見え方がいくらかでも変わるようなものが作れないものか? そしてそれは、絵画という媒体の上でも可能なのではないか? 私の情念が平面にものを描くことを求める以上、可能かどうかを何かの物差しにあててみるのではなく、可能〈ならしめる〉──つまり、可能な状況あるいは、良好な結果を作り出すしかないのではないか?
諦めかけていた筆をもう一度とったのは、4年前のことだった。
アジテーションめいた言葉はさておいても、よい芸術が「質的に異なる生活」をもたらすものであることは言うまでもない。
「生活」は人の数だけあるので、私としてはあくまで〈量〉的に異なる生活を求めているわけではないと、記しておきたい。物資は飽和している。時間はもちろん、誰にも同じだけ配分されている。量を求めているのは、経済や暴力に苦しめられている人々だ。日本でも、世界の遠い場所でも。その人々が存在する世界で一体、何を描くべきなのか。早くも〈量〉をめぐる思考は混乱せざるをえない。
〈量〉をすでに得て、次に〈質〉を欲する人々をキャッチし、その人々のために作品を作ることが、私が作家として糧を得る道だろうか。そんな考え方、生き方は粗雑きわまりない。
問いを解くためには、作家が「進歩的なやりかたと目的」を備える必要があると思う。社会の矛盾が圧力となり、政治にも変化が訪れた。政権は代わるべくして代わり、新しい風が吹き始めたように、多くの人が感じている今日なら、なおのこと。
作家は一人で描いているのではなく、周囲にいる10人、20人、あるいはもっと多くの人々と交信しながら画布を埋めている。私が私自身を励まし、勇気づけようとしても、人に元気を与えることなどできはしないだろう。そうではなく、新しいものの見方や考え方を、その人自身の中に発見するための最初の火花を作り出したい。
油絵の展示と公開制作(常時)を行います。どうぞお運びください。