ものを描くことからはじめている以上、私の絵はみんな、「具象画」なのかもしれない。写実のエッセンスが、いくらかは残っているのだろう。海の水を薄めても、やはり汽水ではあるように。

すくなくとも、ものを描く─愚直にデッサンをすることから始めたのは事実だ。その汽水の比率も、つきとめようがない。見る人が決めればよい──、真水に着目する人もいるだろうし、かすかな塩の存在に気づく人もいようから。

芸術家の感性は、快楽のためだけのものではない。視覚的にも、聴覚的にも。では、その感性とは何か。

人間性の回復。絵の具をキャンバスの上に盛ることの中にそれはあり、見る人の中にも芽生えてほしいものがそれだ。

チェチェンであれ、パレスチナであれ、東京の路上であれ、非人間的な状況に目をつぶらない、官能的に不快なものに立ち向かおうとすることだ。

だから芸術家は、人間的なものの考えかたや生き方と、そうでない種類のものを、一瞬の限られた情報から、峻別しなければならない。それは勘と呼ばれるものかもしれない。

正確な勘というものは、背景の知識と、その判断までたどりつくための観察がなければ成り立たない。そのような感性を持ちたい。

芸術が、人間性の回復という課題を負うのなら、非人間的なものへの服従を拒否し、そこに囚われた人々を別の場所に連れ出せるような力量を蓄えるべきだ。

芸術がもたらすのは、進歩でも後退でもない。感性の深化によって、質の異なる生を生きることである。