Vol.05 No.20 2005.07.17
発行部数:1665部
「上演されなかった『三人姉妹』」、その後
大富亮/チェチェンニュース
ライトの落ちた劇場の席に腰をおろしたと思ったら、いきなり銃声が轟き、左右の扉を蹴破るようにして突入してきたゲリラたちに、私は銃口をつきつけられた。そういう芝居なのだとは聞いていたが、いままで情報としてだけ知っていた事件と、現実の武装ゲリラたちの姿が結びついてしまい、体が震えはじめた。
昨日、紀伊国屋ホールで、「上演されなかった『三人姉妹』を見た。ゲリラたちは、不法占拠され、20万人の同胞が殺戮された「祖国」での戦争を中止させるために、劇場にやってきたのだ。観客に扮した何人かの役者も、人質になった。しかし、それまでかかっていたチェーホフの「三人姉妹」は、役者たちの発意で強引に上演されつづけるのだった。劇中劇として断続する「三人姉妹」と、演じる人々のドラマ。そして、舞台を取り囲み、監視する若いゲリラたちとの不思議な応酬が続く。
この芝居は長い。2時間以上の間、観客には休憩もなく、座席についていなければならない。まるであの事件の追体験を迫るように。
「この場所では固有名詞を口にすることを禁止する!」 と、若いゲリラのリーダーは宣言するから、詳細をきわめるディティルから示唆されてはいても、私たちの注視する地域から来てたゲリラかどうかを問題にするのは、きっと野暮なことなのだろう。
だから、私たちはこう言うこともできる。ここは、アチェや東ティモールの人々を抑圧してきた人々の首都、ジャカルタかもしれない。イラクを不法占領するワシントンなのかもしれない。ウイグルの人々の東トルキスタンの独立を許そうとしない北京で、あるいは、クルド人への過酷な同化政策を貫くアンカラの劇場で、パレスチナの不法占拠を続けるイスラエルの首都で、これは起こりうる。あるいは、いつか、東京か、大阪で。
そうやって名詞を連ねるのではなく、ただ省略することで見えてくるものもあるのだと思い知らされた。私たちはこう問われている。「チェチェンでなければ、どうなのだ」と。この芝居が何なのか、あの事件が何だったのか、どんな意味を持っていたのかを、これからも考える価値があると思う。それにはこの紛争のすべての要素が、縮図として詰まっているからだ。この芝居で銃口を突きつけられる前と後では、世界の見え方が違ってくる。
精密に再現されたタイムラインと、衛星の電波越しに見たとおりの武装をまとって、彼らはやってきた。その主張はわかりやすい。「人質」となった私たちの心にも、すとん、と落ちてくる。わかりやすいだけに単調であっても、背景に彼ら自身も知らない謀略があったとしても、それでも言葉が届くのは、観客に別れを告げる若い彼らが、切なくなるほど決然とした表情を、私たちに向けたからだろうか。
私たちの世界に突入し、そして消えていった彼らの姿を見て、思わず涙が落ちた。どうしても、彼らにもう一度会いたいと思う。今度は、チェーホフを読んだ後で。
兵庫・尼崎ピッコロシアターでは、7月21日と22日に上演。
詳しくは: http://www.alles.or.jp/~rinkogun/sanninshimai.html