ユーシェンコ大統領あての公開書簡
原文: http://d.hatena.ne.jp/ootomi/20050518/1116381775
ウクライナで十四年間生活し、オレンジ革命にも参加したにも拘らず最近追放された日本の仏法僧より
ユーシェンコ大統領殿
大統領就任百日を迎えられた事に対しまして心からお祝い申し上げます。
ご記憶のことと存じますが、改めて貴大統領就任式前夜祭のマリンスキー公園での太鼓の音を思い出して頂きたいのです。この音はオレンジ革命の高揚の中でキエフの街中に響きわたっていたものです。
これはウクライナの日本山妙法寺派の仏法僧たちの祈りの太鼓の音です。
私は、一九九一年八月のモスクワにおけるクーデターの際の非暴力運動に参加した後ウクライナに移り彼らを指導しています。七〇年から八〇年にはヨーロッパにおいて平和運動に携わって来ましたが,この地域の冷戦後の前例のない変革のために我が身を捧げることを誓った者です。
その十四年間のソビエト体制からの移行期間はまさに混乱と困難な経験の連続でした。私たち仏教徒の祈りの太鼓はこの過程であらゆる困難な出来事の度に鳴り響きました。一九九三年のエリツィンのモスクワホワイトハウス攻撃やソ連体制後の最も悲劇的な軍事衝突であるチェチェン戦争を例に挙げる事が出来ます。
私たちは祈りの太鼓を持って平和と非暴力の証人としてその場に臨みました。
私の歯に衣を着せないチェチェン戦争批判とチェチェンの戦場地における平和活動のために、ロシア連邦保安局(FSB)は二〇〇〇年に私を「好ましからざる人物」と指定しました。
ウクライナにおける移行期間も例外ではありませんでした。私たちの教団は地方行政府や地方の宗教委員会からの妨害に直面せざるをえませんでした。ハリコフで開かれた二〇〇〇年のユネスコ平和文化年記念の平和フェスチバルは警官隊の包囲の中で行われました。また釈迦牟尼解脱祭では参加者全員が留置場送りになりました。その後ハリコフの森林公園にあった私たちの地域集会場は強制退去を命じられた上で解体されてしまいました。
昨年二月キエフ・ボルイスピル空港に到着した時に私は入国を阻止され、後千年間はウクライナに来られないと言うのみで,詳しい説明もなく退去させられました。
しかしながら、十四年間のウクライナの人々との交流によって、私は古代スキタイ以来の文化に培われたユニークな歴史的精神性に深い感銘を受けております。
それ故目を見張るような全く平和的なウクライナのオレンジ革命に何百万の人々が参画したことはこの精神性に目覚めたための奇跡であることに他ならないと思います。私自身そして私たちの教団がこの人類史上前例のない有意義な歴史的・文化的勝利に参画出来た事を心から喜んでおります。この勝利を記念する意味で、私たちの教団はキエフに宝塔を建立してウクライナの歴史上新しい時代の到来を祝う事を提案しております。
大統領殿
このようなオレンジ革命の素晴らしい勝利にも拘わらず,残念ながら私はウクライナへの入国を拒否されているという事実をお伝えせざるを得ません。今年の五月四日にポーランドとウクライナの国境においてウクライナ入国を拒否され,国家保安局(SBU)の指示によりポーランドに送還されました。ジャーナリストが後でSBUのスポークスマンに聞いた所では,CIS国境安全保障協定に従って、二〇〇二年にこの決定がなされたとのことです。このようなSBUの決定は不公平、非合理かつ時代遅れであると信じます。わたしがロシアの安全上の脅威だとして私を追放したソビエト体制後の新生ロシアは恥ずべきであると思います。実際に私は一番困難な時期にモスクワに留まってロシアの将来を祈った世界で唯一の仏法僧です。その結果私はロシアの実情をこの目で見て来ました。
私は心からオレンジ革命後のウクライナは、貴大統領が指導力を発揮し、このような不名誉な行為に追随しないようにするとともに、大統領選挙中の公約を守り、真に公平で自由な民主ウクライナというビジョンを持ち続け、国民や友胞にとって誠実であって頂きたいと心からお願いする次第です。
ウクライナのSBUが私に採った措置に対する対応は、貴大統領のビジョンを占う試金石であると思います。
ワルシャワの欧州評議会サミットの期間中私はウクライナとロシアの教え子たちの参加を得て、ワルシャワの古いシティーセンターで「チェチェンをジュノサイドから救おう」という平和祈念礼拝会を催しました。それと同時に、私は貴大統領あての公開書簡を発出しました。私の意を汲んでいただき、本件をご調査頂きたいと願っております。