閉ざされた声=チェチェン

ootomi2005-07-21

(6) タイーサ(下)(林克明
2005年5月20日付け信濃毎日新聞記事を一部改稿

私には伝える勇気がある

 チェチェンの西隣にあるイングーシのナズラン市。二〇〇五一月十二日、住宅街の一角を封鎖したロシア連邦保安局(FSB)の特殊部隊員たちは、午後二時ころ、『SNO』事務所の扉を激しくたたき、室内に乱入した。

 タイーサ・イサーエヴァ(32)が設立したSNOは、ナズランに事務所を置き、チェチェンの状況をインターネットで国内外に伝えている。市の中心部に借りていた事務所の家賃が払えなくなり、数日前、住宅街の狭いアパートの一室に移ったばかりだった。

 覆面に防弾チョッキ、自動小銃を手にした隊員たちは、事務所にいたタイーサともうひとりの女性に、両手を挙げて壁際に立つよう命じた。タイーサの後頭部には自動小銃が突きつけられた。

ジャーナリストたちの受難

 彼らは手当たりしだいに書類をかき集め、コンピュータを押収すると、タイーサたちをその場に残して引きあげていった。

「無事で、何もなかったわ」。
タイーサは、こともなげに言う。チェチェンでは、占領に抵抗する活動家やジャーナリストがロシア軍や治安警察に連行されたまま「行方不明」になることが日常茶飯と化している。裁判なしで処刑されることも多い。だから、銃を突きつけられて家宅捜索をされるくらいは、「何もなかった」に等しいのかもしれない。

 だが、このときは「たまたまそうだった」にすぎない。四日前の一月八日、私が滞在していたナズラン市内のホテルの近くで、ロシア治安部隊は、抵抗活動家四人が隠れていた住宅の周囲を同じように封鎖。戦車も出し、三時間にわたって攻撃を加えて住宅ごと破壊し、四人を殺害した。

 幸いタイーサは今回は連行されなかったが、武装した特殊部隊に踏み込まれた瞬間、かつて逮捕されたときの記憶がよみがえったに違いない。
 一九九九年から二〇〇〇年にかけての冬、当時、独立派政府系の通信社『チェチェンプレス』のディレクターだったタイーサはロシア軍に逮捕され、チェチェン内最大の基地であるハンカラ基地に拘留された。

「夜、看守が兵士たちに『何で女がいるのに何もしないんだ。朝までお前たちの自由にしていいんだぞ』と、私に聞こえるように話していた」。
タイーサは一睡もできずに朝を迎えた。

 寒さと空腹、恐怖と睡眠不足で朦朧(もうろう)としていると、将校がきて、コンデンスミルクをかけたイチゴを差し出した。
「通信社はどこにあって、誰が働いているんだ?」。
将校は笑顔で聞いてきたという。

 タイーサが逮捕されたことは、国際人権団体などが公表し、ヨーロッパでも大きく報道されたため、彼女は一カ月足らずで無事釈放された。

「暴力をふるわなくても人間を破滅させられるということを、あのとき身をもって知った」とタイーサは言う。「同僚たちも逮捕され、みな地獄をくぐってきた」

秘密会議

 ナズランのSNO事務所がFSB特殊部隊に踏み込まれる三日前、チェチェンの首都グローズヌイで、占領に抵抗する女性たちの会合が秘密裏に開かれた。二十七人が集まる予定だったが、検問をくぐり抜けてたどり着けたのは十五人だった。タイーサから聞いて、私はこの会合に立ち会うことができた。

 チェチェンの現状をどうやって世界に伝えていくか。議論は三時間に及び、新たに選出された議長の女性(62)が「ロシアはチェチェンの魂を屈服させることはできない。それをペンの力で訴えていこう」と締めくくった。

 だからこそ政治権力から独立した報道・情報の拠点を確立しなくてはならないとタイーサは考えている。
「私には、自分が見たこと、知ったこと、考えたことを、伝える勇気がある」。
言論の自由などないに等しい軍事占領下で、彼女はそう言い切った。弾圧に屈することなく、SNOは活動を続けている。
 言論の自由がジリジリと後退していく日本で、いま私は、彼女の言葉をかみしめている。
 (つづく)
  
(写真 女性抵抗運動家たちがひそかに集まった。2005年1月9日グローズヌイ市)