予想通りの選挙結果

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2005年11月30日、プラハ・ウォッチドッグ/ウマルト・チャダーエフ

親モスクワ政権によって組織されたチェチェン議会選挙は事もなく終了した。結果はほぼすべての人が予測していた通りである。チェチェン議会はカディーロフによって私物化された。

予想通り、選挙の勝利は、議会の単独過半数を押さえた「統一ロシア」に贈られた。(チェチェン)議会は現在、この親モスクワ政党とロシア連邦共産党、右派勢力同盟(SPS)によって構成されており、後者の二党は、チェチェン中央選挙委員会の議会データを信用するならば11%の支持を獲得している。一方、「統一ロシア」には61%以上の支持があったという。

人権活動家による批判−選挙委員会データは真実か?−

チェチェン市民の大半が11月27日の選挙をボイコットした事実をよそに、当局は占拠が(正常に)「実施された」と発表した。さらに、チェチェン選挙委員会は「投票日に市民が積極的に投票した」ことをアピールし、投票率が60%を超えたことを表明している。

特に強調されたのは、オブザーバーによる選挙委員会への異議申し立てが行われず、選挙が平穏な状況下で行われたということであった。しかし、選挙区を訪れたジャーナリストやNGOの代表によると、真実はその逆であるという。

「グローズヌイの投票所の状況をモニタリングした我々のスタッフの観察によると、『投票日に市民が積極的に投票した』事実はありません」と「メモリアル」人権センターの代表は語る。

「実際の投票所では最初の半日−殆どの市民が通常なら投票に行くであろう時間帯−の投票率は、わずか10〜15%でした。もっとも、村での投票率は20〜25%と、より高いものだったかもしれません。というのは、そうした地区の候補者は隣人や親戚、友人によって支援されているからです」

「ひどい場合では、選挙のわずか24時間前に多くの候補者の名前がようやく知らされるという状況で、どんな種類の民主主義が語れるというのでしょうか。たとえば、11月26日になってすぐに私たちは、クルチャロイ地区の第七選挙区で−そこではアイシャト・イスラピロヴァとサルマン・ザクリーエフが共和国議会(上院)の選挙に立候補していましたが−ラマザン・カディーロフの義弟であるザクリーエフが「当選」するであろうことを知っていたのです」
「メモリアル」の職員は言う。

「同じ地区内の近隣の選挙区には、アルビ・エセムバーエフとアダム・カミードフ、アスランベック・アイダミーロフという3人の候補者がいましたが、当選することになっている人物はカディーロフの妻の兄弟であるアイダミーロフでした」

「これが実際に起こったことなのです。11月28日の夜の時点で、この2人の候補者−ザクリーエフとアイダミーロフ−が議員として「当選した」ことはすでに解りきっていたのです」

難民を排除した選挙

イングーシ共和国の仮設住宅に住み、2万3千人から4万人と推定されているチェチェン難民たちは、今回の選挙に参加することができなかった。

(2003年の)共和国憲法に関する国民投票の際には、難民キャンプに投票箱が設置された。アフマッド・カディーロフ(2003年)やアル・アルハーノフ(2004年)が選出された大統領選挙中には、難民をチェチェンの投票所に連れて行くための臨時バスが運行されている。だが、今回政府は難民の存在をひたすら無視するにとどまった。

「本当に私たちの意見に関心を持ってくれる人は誰もいないのです」と44歳のアスランベック・サルダーロフは語る。「政府が私たちのことを思い出すのは、『難民の故国への自発的な帰還』に関するお決まりのかまびすしいキャンペーンを繰り広げたり、国際社会に次の難民支援プロジェクトを要請したりするときだけなのです」

「今回チェチェン政府は、難民が選挙に参加できる状況があたかも用意されているかのように装う必要さえ覚えなかったのでしょう。もっとも(たとえ投票所へのバスが運行されたとしても)人々がこの『イベント』に出掛けていたとは思えませんが・・・。実際、こうした選挙の結果があらかじめ決定されているということ、そして、チェチェンの議会が『カディーロフ一派』の息のかかった人々に独占されるだろうということは、私たちにとって秘密でもなんでもなかったのですから」