ロシアはチェチェンを二度騙した

 −ロシア−チェチェン権限分割条約案をめぐって−

 ロシアはチェチェンに対し数々の悪事をはたらいていますが、国家レベルの公約を二度破棄しました。その関連事項は次の通りです。

(1)第一次チェチェン侵攻

 ソ連崩壊後、旧ロシア共和国はかっての領域内の全ての自治共和国自治州のうちの幾つかを格上げして共和国としそれを束ねて連邦制の国家体制を作る事にしました。各自治共和国はロシアと連邦条約の調印をしてその傘下に入る事となりました。

 しかしながらタタールスタン共和国チェチェン・イングーシ共和国(イングーシは後に分離して調印)は連邦条約の調印を拒否し現在に至っています。現時点においては両共和国ともロシア連邦の構成主体となっていますが、法律的には両国ともロシア連邦と権限分割条約(主権条約)を結ぶ必要があります。タタールスタンは93年に条約を結びましたが、チェチェンは拒否してロシアに攻め込まれました。
 この違いはタタールスタンとチェチェンの大統領の先見性の差によって説明される事が多いのですが、タタールスタンはモスクワに近いので軍事行動は取れなかったという事情もあります。チェチェンはロシアの外れの外れですからロシア側は始めから強圧的で、ソ連崩壊後間もない91年から小規模ながら軍隊をさしむけ始めました。別の観点からすれば、チェチェンタタールスタンも石油を産出しますが、タタールスタンにはソ連時代から自動車産業石油化学工業の大きな工場があり多数のロシア人が経営トップとして産業界を牛耳っていました。したがってロシアとの政治交渉の橋渡しの役も果たしたと思われます。

 チェチェンに対しロシアは94年12月に大規模に進攻を開始しました。この背景には当時のロシアの社会情勢が密接に係っています。つまりソ連崩壊後のロシアの経済は混乱を極め、エリツィン 大統領の人気は下降する一方でした。そのためにチェチェンを悪者に仕立て上げて軍事力で制圧する事によって強いロシアを演出し、その功労者として人気を高めようとした訳です。しかしながら96年の選挙では一回で過半数が取れず、共産党のジュガノフ党首と決選投票で争い、第3位だったレベジ氏(後年暗殺された)を味方に引き込んでやっと大統領になれたような有様です。

(2)ハサブユルト合意と和平条約

 チェチェン側の抵抗にあってロシアの第1次侵攻は失敗し、ロシア国内の反戦世論の高まりもあって停戦せざるを得ない状況になりました。そのため96年に隣国のダゲスタン共和国のハサブユルト市において両者は停戦協定(サブユルト合意)を結びました。その翌年エリツィン大統領とマスハードフ大統領は和平条約に調印しました。

 これらの文書には2001年末までに、両国は国際法上の原則に則って両国の基本関係を決定する事、及び紛争の解決には武力を用いない事が明記されていました。マスハードフ大統領は欧米を行脚して各国の理解を求めていましたので、ロシア連邦に留まっても事実上の独立は得られるものと見られていました。

 ところがそうなると諸外国はチェチェン共和国の独立を承認するのは確実で場合によっては連邦構成共和国も承認すると共に自分も独立を志向するかもしれない、という考えがロシアで軍部を始めとする強硬派に支配的になって来ました。それを阻止するにはハサブユルト合意を無効にすることが不可欠でした。丁度その頃隣国ダゲスタンではイスラム過激派が台頭し共和国政府が管掌出来ない解放区を作ったりしていました。

 99年後半にはそのリーダーとチェチェンの武闘派(反マスハードフ派)が連携してダゲスタン解放区の拡大行動をとるようになりました。勿論ロシア側は武力鎮圧に乗り出しました。その直後モスクワで民間アパート連続爆破事件が起き多くの死傷者が出ました。就任したばかりのプーチン首相はこれはチェチェンの仕業だとして大規模なチェチェン侵攻を開始しました。

 毒殺されたリトビネンコ元KGB将校やイギリスに亡命しているベレゾフスキー氏はこの爆破事件はプーチンの自作自演という説を唱えています。その真偽を考えるヒントは同じ頃近くのリャザン市の民間アパートで高性能爆弾が仕掛けられているのを住民によって発見された際、ロシア政府は訓練用の砂糖の袋だったと発表していた事でしょう。とにかくハサブユルト合意は反故になりましたが、マスハードフ大統領は殺害されるまで和平交渉を提唱していました。

(3)傀儡政権の成立

 プーチン政権にとってチェチェン問題は解決すべき重要問題の一つです。年頭教書や重要記者会見の際には必ずコメントがあります。ロシアとしては建前は法治国家として振る舞っていますので、チェチェン憲法ロシア連邦憲法との間に矛盾があるので、占領下のチェチェンに自分の息のかかった人間(アフメド・カディロフ)を大統領に据えた上でオリジナル憲法を改訂させました。その承認の国民投票の前(03年3月)にプーチン大統領はテレビ演説をして「将来締結される権限区分条約(主権条約)において幅広い自治を与える」という約束をしました。つまり国民投票で否決されると言う事態を回避した訳です。

 そもそもオリジナル憲法と改訂憲法の主要な差異は主権と資源所有権にあります。つまりオリジナル憲法では第1条で自国を主権を持った民主的な法治国家であると規定しているのに対して、改訂憲法では主権の文字は消されて、ロシア連邦の管轄外の部分に限定的な主権を持つとされています。さらに領土と資源については「究極の権限」を持つとされていたものが、領土はロシア連邦領土の一部であると書き換えられました。資源についてはロシア連邦法の範囲内で利用出来ると書き換えられました。

 さきのプーチン大統領の公約に基いて、憲法改定後両国の関係者の間で権限区分条約の草案作りが開始されました。チェチェン側の要求は、主権の明文化、資源利用の自由化、特に石油販売利益の自主的処分権の明文化等でした。しかしながらこれらの案件はロシア側の合意を得られないまま現在に至りました。その間プーチン大統領は自らの権限の増大を図り各共和国の権限を弱体化する方策を執りました。

 その結果の一つは各共和国大統領の直接選挙制を無視してプーチン大統領の任命制にしました。実際に各地の共和国憲法では3選禁止であるのに実際は任命されて3期目を勤めている大統領も出てきました。逆にプーチンが気に入らない人物は大統領に任命されないようになりました。この流れを引き延ばせばプーチン自身の3選の可能性もあるという事になります(確実に権力を保持するには任期延長と言う隠し球がありました。億が一にも反対派が大統領になればプーチン自身が国家反逆罪に問われる事になります)。

 結論的にはロシアにとって「目の上のタンコブ」的なチェチェンのオリジナル憲法を改訂さえすれば、例え傀儡政権であろうとチェチェンの特権要求には耳を貸す必要はなくなりました。それでも、もっともらしい言い訳は準備しています。

 チェチェンと同じく連邦条約に調印していないタタールスタン共和国との権限区分条約を改訂して国会に付託しました。プーチン与党が圧倒的多数を占めている下院は承認しましたが、各共和国及び各州の代表で構成されている上院は、タタールスタンだけに特権を認める事に反対しました。上院で反対された主な事項は次の各項目です。

  1. タタールスタンを、条約上「民主的法治国家」として認める事(以前のタタールスタンの憲法では「主権民主国家」となっていたのを、02年の憲法改正で「民主的法治国家」と改訂した事の追認)
  2. 大統領の資格の一つとしてタタール語に堪能な事が明記された事
  3. 国際交流および対外経済関係の自由化(事前許可は不要)
  4. タタールスタン独自のパスポート交付権、等

 つまりプーチン政権は、タタールスタン側と共同して権限分割条約案作りを行い、ロシア下院でいったん通しましたが、上院ではそれに難癖をつけて却下しました。
 プーチン大統領はこれを奇貨として(実際はそのように仕向けたのですが)条約を未成立のまま放置しています。本当に成立させたければ、もう一度下院に差し戻せば、3分の2以上の賛成が得られるので成立は可能です。

 こういう絶大な権限があるのを楯にとって、プーチン政権はチェチェンとの権限区分条約の草案すら作りません。つまりチェチェンは、ハサブユルト合意を反故にされたのに続いて「幅広い自治を与える」という公約をも反故にされた訳です。

(今西昌幸)

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