「イラク -狼の谷-」という映画を見た

公式HP: http://www.at-e.co.jp/ookami/

 すごい映画で、一緒に行った友人と、2時間くらい議論をすることになった。いつもいろいろなことをおしえてくれるAさんに感謝。

 かいつまんであらすじを紹介すると、イラク戦争が始まった頃、イラク北部のクルド人地区に派遣されていたトルコ軍特殊部隊の司令部が、友軍であるはずの米軍に包囲され、指揮官たちが拘束されるという不祥事があった。トルコ国内世論はこの屈辱に大反発し、指揮官の一人は帰国後ピストル自殺した。(ここまでが事実、らしい)
 この事件に憤った元情報部員ポラットら4人組(一人はクルド人)が、ひそかにイラク入りして、くだんの拘束事件の指揮をとった米軍元将校マーシャルに同じ屈辱を味あわせるべく活動を開始。その頃、米軍はイラク人たちの結婚式場を襲撃し、花婿を殺す。また、アブグレイブ収容所にイラク人たちを移送し、捕虜虐待、臓器売買など蛮行の限りをつくす。人生を台無しにされた花嫁レイラと、ポラットたちは合流し、狙撃や爆弾を駆使してマーシャルを追う。

 マーシャルら米軍側は、いきづまったイラク占領の状況を打開すべく、アラブ人勢力、トルクメン人勢力、クルド人勢力との四者会談を開くが、基本的にはアラブ・トルクメン勢力はもともと切り捨てるつもりでいて、そのために、この中でもっともずるくて金を持っているクルド人勢力を利用する。そのかたわら、ポラットとマーシャルの、追いつ追われつのアクションが展開する・・・のだが、


 まずこの映画がかなりテンポの悪いアクション映画であること、主人公が大根役者であること、中盤以降ストーリーが見えにくいこと、さほど存在意義のない美人のヒロインの服装がアラビアのロレンスの時代のままだったりするような偏見があるあたりは、大目に見たい。


 それより、この映画はイラククルド人地区から始まり、限りなく素人っぽいクルド人が、常にポラットの仲間として随行し、ベンツに乗ったイラククルド人勢力のボスが、アメリカ軍にべったりの狡猾さ、あるいは頭の悪さを観客の前にさらす。常に「クルド」が見え隠れするのだ。

 頭の悪さ・・・。うっひゃあ。

 以前、チェチェンに関わる映画の批評として、こういうものを書いた。
「映画「大統領のカウントダウン」 または、笑えるプロパガンダ」:
http://chechennews.org/chn/0608.htm

 『FSBは正義のスパイ組織になる。人質たちがロシア治安当局の毒ガスを嗅がされて死んだ劇場占拠事件は、ダイ・ハードと同じやもめ男がたった一人で潜入して無血解決する「サーカス占拠事件」になる。チェチェン人たちを演じる役者達にはひとかけらの人格も与えられず、「アラブ人にだまされた小悪党たち」になる』

 ロシア政府が軍を協力させて作った、正真正銘のプロパガンダ映画である「カウントダウン」では、表向き、ロシア政府の敵はウサマ・ビン・ラディンだった。けれど、彼らは遠い国の砂漠で邪悪な計画を指示するだけで、実行役は頭のおかしいチェチェン人が担う。

 チェチェンで戦争と占領、そしてチェチェン人に対する虐待が続いている現状と、モスクワなどロシアの各都市で起こっているポグロムめいたコーカサス人全般への差別と「カウントダウン」とを照らし合わせると、真の敵はチェチェン人たちに他ならない。だからこそ、彼らは徹底的にバカにされ、貶められ、場合によっては存在を無視される。実際には、チェチェン人こそ粘り強い抵抗を続け、ロシアが最も手を焼いているにもかかわらず。

 共通項を、こうまとめてみよう:

  • 「フィクションとしての敵」への恐怖と怒り―(米軍/ラディン)*1
  • 「現実の敵」への侮蔑と無視― (クルド人チェチェン人)
  • 「彼らより優れたわれわれ」の結束と勝利― (トルコ人/ロシア人)

 あきれるくらいよく似た二つの映画の構造。結局米軍のマーシャルは殺害され、「われわれ」は勝利する。

 この映画を見に行ったことを金の無駄だとは思わない。むしろ2本とも観た人は、投資が無駄でなかったことに気が付くと思う。私はそうだった。なぜこの映画が作られ、(宣伝文句だから割り引いて聞く必要があるとはいえ、)どうしてトルコの人々はこの程度の内容の映画に熱狂したのか? 興味は尽きない。

 私なりにストーリーを読み替えてみると、「われわれより劣ったクルド人たちの土地に、わざわざ特殊部隊が出張って働いてたってのに、米軍のやつら顔に泥を塗りやがった。イラククルド人たちも結託していやがる。許せねえ」という動機が、この映画の出発点にある。土台には、国内少数民族への差別があるように見える。

 そうした動機に突き動かされて話を展開していった結果、この映画は「反戦映画」であることはもとより、「反米映画」であることさえ、逃している。いきあたりばったりな話の展開も、これらの無理のある前提の影響かもしれない。そもそもどうしてトルコ軍はイラククルド人地区に、平服を着た特殊部隊の司令部なんか置いていたんだろう?

 少なくとも日本の観客には、とってつけたような収容所の虐待シーンくらいでは、何の米国批判にも感じられないと思う。まるでヤクザの出入りか、サル山のボス争いでも見ているような気分になる(自分と関係ない争いという意味で。どっちも見たことないけど)。

 パンフレットには、主要人物の写真の下に、彼らの性格や行動などが書かれているのだが、クルド人だけは写真と名前のほかはすべて空白。ここにも「無視」がある。

 クルド問題を深く知らないので、トルコのクルド人勢力と、イラクにおけるクルド自治区の、この映画での政治的位置づけはよくわからないところがある。キリスト教ユダヤ教イスラム教それぞれの風習に対する、偏見に満ちた描写もあるように思うけれど、それもこれから観る人の知識に委ねたい。

 しかしこれらのテーマは、たかがB級アクション映画の偏見に対するブーイングというだけでなく、さまざまな国での、民族ごとの表象のありかたに迫る、大事な問題のように思い始めて、かなり興奮しながら見ることになった(もちろんあくびの出る退屈なシーンもある)。できれば大勢の人に観てもらって、たくさん議論をしたい。興行への配慮で言っているのではなく、心から。

 「無視」という態度は、私たち自身が生活で、あるいは政治の中で限りなく行なっている、ありふれた作業でもあると思う。きっと、誰かをたんに憎むことよりも。

(大富亮/チェチェンニュース)

*1:米軍を敵に回すことはトルコにとってフィクションでありつづけるし、ラディンを敵にするのは、チェチェン戦争を「対テロ戦争」の一部にしたいロシアによるフィクション