閉ざされた声=チェチェン(2)タマーラ(下)

ootomi2005-07-04

信濃毎日新聞2005年4月15日掲載原稿を一部改稿

「民族抹殺」の犯罪を記録

再びビデオカメラを手に

一九九九年九月、チェチェンとロシアの停戦合意は破られ、第二次チェチェン戦争が始まった。ロシア軍は、第一次戦争(九四―九六年)をはるかに上回る大規模な攻撃で、またたくまにチェチェン全土を占領した。だが、それから五年半が過ぎる現在も、ロシアの占領に対するチェチェンの人々の抵抗運動は続いている。

かつて地下テレビ局で活動していたタマーラ・カラーエヴァ(51)は、再び戦争が始まると、家族と別れ、カメラを手に家を出た。母と三人の妹、その子どもたちが住む、グローズヌイ近郊のアルハンユルト村は、その後、ロシア軍の激しい攻撃にさらされた。タマーラがようやく村に戻ることができたのは、家を出てから二カ月半後だった。



「恐らく家族の誰も生き残ってはいまいと、遺体を探すつもりでした。守ってやれなかった自分を責めながら…。ある建物の前にきたとき、家族が買い物に使う袋が見えたんです。もしやと思って近づくと、建物から、髪の毛はぼさぼさ、服も体も汚れ果てた異様な姿だったけれど、家族が出てきました。信じられない気持ちでした」と彼女は振り返る。
だが、腕を負傷していた妹は、治療費(約二千円)を必死にかき集めたタマーラの努力もむなしく、まもなく壊疽(えそ)を起こして死んだ。

女性活動家100名が行方不明

〇五年一月、私はタマーラの家族を訪ねた。小柄な母親(71)は、娘が撮影したビデオや写真を、ロシア軍の検問を潜り抜けてチェチェンの外に持ち出す役目を担っていた時期もある。彼女は、私たち外国人を見るなり、「どうか娘を外国に逃がしてやってください」と懇願した。命の危険を冒して活動するタマーラを一刻も早く亡命させたいと願っているのだ。
チェチェンでは、ロシア軍や治安警察に住民が連行され、そのまま行方不明になる事件が繰り返し起きている。行方不明者の遺棄死体が大量に発見されたことも一度や二度ではない。それでも、「死体が見つかればまだあきらめもつく」と行方不明者の家族は言う。過去五年間の行方不明者は約一万八千人。そのうち約百人は、ロシアの秘密警察に逮捕された女性で、多くは抵抗運動家だという。
むろん彼らはタマーラの活動も見逃さなかった。二〇〇二年九月、ロシア軍に包囲された村を取材していたタマーラは、ロシア軍に逮捕され、傀儡(かいらい)政権の警察署へ連行された。「当時は、ロシア占領軍が権限の一部を傀儡政権へ移行させていた時期。裏切り者の傀儡政権とはいえ、チェチェン人に引き渡されたことで、私はいまも生きていられるのです」。十一日後に釈放された彼女は、体力の回復を待って活動を再開した。

人生を変えた場所

タマーラに亡命の意思はない。なぜそうまでして活動を続けるのか。「チェチェン人の自由を武力で踏みにじっているロシア軍兵士には、嫌な言葉だけれど『憎悪』を感じる。でも私は、彼らに銃口を向けることはできない。だから一人の人間として真実を伝え、占領に抵抗し、少数民族抹殺という彼らの犯罪を記録しているのです」
一月、タマーラとともに、彼女の人生を変えた場所を訪ねた。グローズヌイの中心部にある大統領宮殿跡地。「(一九九一年にロシアからの)独立を宣言した『祖国』のために汗を流したいと、私は掃除婦としてここで働いた。それが私の誇りであり、出発点です」。その宮殿はいま、礎石を残して破壊し尽くされ、コンクリート破片と土くれが交じるだだっ広い空き地に姿を変えている。
タマーラは言った。
「この大統領宮殿前広場は、祖国の不幸な歴史と血を多く見てきました。ここで犠牲になった人たちの血の上を歩いていると思うと、いてもたってもいられない。もしこの戦争に生き残れたら、無残に殺され、あちこちに埋められている遺体を掘り起こして、何年かかっても遺族に届け、故郷の土に葬ってあげたい」<以下、次号>