閉ざされた声=チェチェン(1)タマーラ(上)

ootomi2005-07-01

信濃毎日新聞 2005年4月8日掲載の記事を一部改稿

四年七ヶ月ぶりの再会

一九九四年十二月、ロシアからの独立を求めるチェチェンにロシア軍が侵攻し、第一次チェチェン戦争が始まってから十年余。チェチェン人女性タマーラ・カラーエヴァ(51)は、数々の戦闘やロシア占領当局の追及をかいくぐり、閉ざされたチェチェン内の状況を外部に知らせ続けてきた。ジャーナリストであり、占領に抵抗する運動家でもある。
〇三年暮れ、四年七カ月ぶりに彼女に再会することができた。九四年以降の十年で人口百万人のうち二十万人以上が死亡したといわれるチェチェン。彼女が無事生きて目の前にいるというだけで、私は胸を衝(つ)かれる思いがした。
ロシア政府によって封鎖されたチェチェンへ、ジャーナリストら外国人が入るのは極めて困難だ。そのため、チェチェン戦争の実態や、占領下の状況は、ほとんど報道されない。だが、その“密室”のなかで、ロシア軍による住民への攻撃と、虐殺や処刑、拷問が繰り返されている。
ロシアとチェチェンの争いの根は深い。帝政ロシア時代にチェチェンを武力併合したロシアは、抵抗する住民を何度も大量に殺害した。第二次大戦末期の四四年二月には、スターリン政権が「ナチス・ドイツへの協力」を理由にチェチェン人全員を中央アジアカザフスタン強制移住させた。この強制移住によってチェチェン人の60%が死亡したといわれる。

流刑地で生まれ孤児院で育つ

タマーラは五四年、この“流刑地”で生まれた。スターリン批判による名誉回復で、彼女の一家は六四年に故郷チェチェンに戻ることができたが、強制移住を生き延びた他の人々と同様、全くのゼロから生活を立て直さなくてはならなかった。かつての自宅には既に他の入植者が住み、寝る場所も仕事もない。明日の食事にも事欠くなか、タマーラは孤児院へ預けられ、そこで成人した。
「孤児院ではロシア語しか許されず、教えられるのはロシアの英雄や作家のことばかり。なんで私たちの偉人は出てこないの?と、子ども心に疑問に思った」とタマーラは振り返る。そんな彼女の民族意識が一気に覚醒(かくせい)させられたのは、九一年のドゥダエフ大統領によるロシアからの独立宣言だった。
独立宣言の騒ぎの中、世界中から代表団やジャーナリストが大挙してチェチェンに押し寄せた。そのとき、外国の代表団がある建物の階段の手すりを触り、汚れていたのでひどくいやな顔をしたという。タマーラは恥ずかしかった。
「どうか私を掃除婦として雇ってください」。彼女は自ら志願して、大統領宮殿で働き始める。成績が良かった彼女は無試験で大学へ進学することもできたが、「専門家や研究者になるより、行動する人になりたい、まずはこの体を動かして役に立ちたいと思った」と言う。大統領宮殿でタマーラは、今年三月に殺害されたマスハドフ大統領をはじめ、独立派指導者たちの言動を、モップを手に見つめた。

下放送で戦争の真実を

その彼女の運命を、九四年のロシア軍の侵攻が変えた。ニュースを聞き大統領宮殿に直行したタマーラは、ビデオカメラを担ぎ取材していた青年サルマン=当時(23)=と出会う。「私にもできるかもしれない」―。彼女はサルマンと『大統領放送』という小さなテレビ局をつくった。スタッフはタマーラを入れて三人。大統領の主張を放送するのではなく、戦争の真実を伝えるためだった。
チェチェンがロシア軍に占領されてからは、地下放送として存続させた。三日と同じ場所に滞在せず、協力者の家を転々としながら、中古ビデオカメラとテレビ、ビデオデッキだけでニュースを編集していた。壊れた建物から取り出した金属で作ったアンテナを山に運んで電波を発信した。その放送には、決して公式発表されない、戦争の被害者たちの姿が映し出されていた。
九六年八月、停戦が合意され、第一次チェチェン戦争の戦火は止んだ。タマーラたちの放送局は解散、一年八カ月にわたる彼女の住所不定の生活が終わりを告げた。しかしそれは、つかの間の平穏にすぎなかった。

<以下 次号>