「ロシア社会の病:コーカサス・チェチェン恐怖症」

「強者が弱者の真似をするとき、強大なソヴィエト・ロシアが、敵対する世界に包囲された『貧者の仲間』の指導者のように振舞うとき、世界に災厄がもたらされる。弱者が弱さを強さに変える方法を強者が採用するとき、それは強制と非人間化の道具と化す」(エリック・ホッファー

「敵はロシアの生命にとって不可欠な一部であり、現在その役割はチェチェン人に与えられている・・・なぜなら敵がいるということにしておかない限り、なぜ60%ものロシア人が貧困ライン以下の生活をしているのかということを、政府は満足に説明することができないからだ・・・」

プラハ・ウォッチドッグ

http://www.watchdog.cz/?show=000000-000015-000006-000014&lang=1

2006年1月23日
Emil Souleimanov

ロシアでは、古代以来つねに、内外の敵のイメージは肥え太らされてきた。その目的は、指導者にとって、より都合のよい方向へ民衆の舵を取ることで社会を動員し、みじめな社会的経済的状況から民衆の不満を逸らすことだった。そのため、冷戦が終結し、米国がもはや憎むべき「宿敵」としての役割を終えてしまったとき、ある種のイデオロギーの空洞が、それに取って替わることになった。

今から10年前、ロシアのジャーナリスト、アレキサンダー・ミンキンは、日刊モスコフスキー・コムソモーレッツ紙において、以下のように指摘している。
「政府は今や新しい敵(敵はロシアの生命にとって不可欠な一部であり、現在その役割はチェチェン人に与えられている)を必要としている。なぜなら、敵がいるということにしておかない限り、なぜ60%ものロシア人が貧困ライン以下の生活をしているのかということを、政府は満足に説明することができないからだ。人々の不満は、現実に行使される暴力によって解消させることができる。ゆえに、その暴力は、何ヶ月も給料の不払いを続けておきながら家賃を値上げする政府や知事やクレムリンにではなく、チェチェンに向ける方がはるかに相応しいというわけだ」

ロシアで反チェチェン感情が煽動されていることは、いくつもの弛緩状態と様々なレベルの緊張状態が繰り返されていることによって、火を見るより明らかである。ロシアの反チェチェン感情は、1990年代初期においてすでに、主に国内の動機によって形成されてきた。

無論、敵のイメージは無からは生まれない。それには多かれ少なかれ根拠があり、民衆の負の感情を媒介とする。この点から言えば、すでに形成された反チェチェン(より広い意味では反コーカサス)感情は、ロシア人とコーカサス人の日常生活における対立関係に根ざしているのである。

旧ソ連時代におけるチェチェン像の変遷

旧ソ連時代においては、コーカサスおよびコーカサス人に対する先入観は、どちらかと言えばプラスの部類に属していた。1970年代末期―特に1980年代―からは、油断がならず信用できないという認識が強まってきた。危険だが文明から孤立した自由を愛する山岳民族という空想化された―19世紀にロシア文学によって創作された―イメージは、1950年代から60年代には「弟」―ときたま生意気ではあるが魅力的で陽気な南方人―、あるいは「英雄好き」―コーカサスの夏の保養地で甘やかされ特別扱いされる人々―というイメージに変わっていった。

1980年代には、コーカサスからロシア都市部へ大量の経済移民が流入した。移民たちにとって、自分たちが多くの場合冷遇される外国(ロシア)の見知らぬ環境(都市)に移住したいう事実は、身内同士の信用関係を築かない限り、地元のロシア人たちと競合して「陽あたる場所」を獲得し、それを保持することが不可能であるということを物語っていた。

こうして、移民たちの排他的で民族的な孤立はいっそう拡大し、まもなくコーカサスの一部の若者の間で、民族あるいは氏族制にもとづいた犯罪ネットワークが成立した。だが、犯罪およびビジネス活動が、ロシア市民の反感を助長する決定的条件になったわけではなかった。そこには、文化的差異という要素も存在したのである。

このような特殊な環境下においては、かつてプラスに捉えられていた、まさにそのアイデンティティの特性が、ときにマイナス要素に転換されることを証明することになった。こうして、ときにプライドは傲慢さに変わり、伝統は野蛮に置き換えられ、突如として自発性は横柄さになり、勇気は攻撃性と解釈され、企業家精神は貪欲さの現れとして見られるようになった。

民族性に根ざした差別は、実際のまたは架空の「差異」―異なった言語や(目に見えて顕著な)文化、「よそ者」としての身体的特徴や気性と考えられるもの―を強調することによって増幅される。こうした事柄―会話中に現れるいわく独特なジェスチャーや顕著なイントネーション、不慣れな環境で結束しようというよそ者ならではの努力―は、地元の市民に対する反抗や無礼であるということになってしまうのだ。

コーカサス諸民族と一つの国で共存した長い年月―旧ソ連の時代―においてさえ、彼らの伝統と文化がよりよく理解されずにきたのは悲しいことである。ロシア人は彼ら(旧ソ連の他民族に関しても同様)に対して、表層的かつ断片的な知識しか持ち合わせていないのだ。最良の場合でも、エキゾチックなコーカサスの「シンボル性」というソビエト時代のステレオタイプ(山々や短剣、血の争い、戦士、不文律、羊肉の串焼き、ワイン・・・)を熱っぽく認識するだけであり、それ以下の場合では、「血に対する飢え」や「裏切り」、山岳民族の野蛮性と小賢しい商才といった、勝手なイメージが先行するばかりである。

恐怖に駆られたロシア人は、あたかも、コーカサス人が「どこにでも」「あまりにも多く」いるため、その気になりさえすれば「すぐにでも都市を占拠しつく」し「すべてを奪う」ことさえできるかのように思っているのだ。無論いくらかは、こうした恐怖症にも根拠がある。というのは、コーカサス人はたいてい商売や行政などにおいて儲けのよい仕事に就いている傾向があり、そのため余計に「目立つ」からである。さらに、コーカサス人は、地元の市民を差し置いて、友人や親戚に新しい仕事を斡旋しようとする。そして、自分たちの氏族や民族の利益を守るために、しばしば野蛮な暴力を振るうことさえ辞さないというわけだ。

かなり興味深いことに、一般的にコーカサス人は、ロシア人とは違って、成功と富を非難に値するものだとは捉えていない。しかし、ロシアでは、ソビエト時代からのステレオタイプ―誠実に働いている限り儲かるわけがないという認識―がいまだに存在する。こうして、大半のロシア人にとっては、コーカサス人の「疑わしい」振る舞いのいくらかは、まさにこのステレオタイプの証明であると受け取られてしまうのだ。

コーカサス人は、ときに、ただ自身の強さや男性らしさを強調するように、富や財産を―それを得た方法はさておき―自慢することがある。そして、その寛大さというものは、しばしば無駄な浪費と紙一重なのだ。しかし、こうした一連の事柄は、コーカサス人にとっては「戦士」(「大胆な」というトルコ語が起源)たることとして捉えられており、名誉―自身の社会的地位の上昇を促すもの―であると考えられている。一方、ロシア人の中には、これを「宗主国」に対する侮辱や非礼だと考える者もいる。

ロシア人の多くは、コーカサス人が「自分たちの苦しみを糧に―すなわち自分たちの良心を利用し、ついには自分たちを騙し、誰をもこき使うことで―」財産を蓄えているのだと思っている。見栄を張ることはコーカサスの文化において典型的なものであり、彼らは本質的には無害な存在であるのだが、それにもかかわらずコーカサス人はロシア人によって誤解されている。

ロシア人は、コーカサス人の、(よくて)「奇妙な」、(悪くて)「無作法」で「非礼な」振る舞いが、自分たちを攻撃するためのものだと思い込んでいるのである。

ソ連崩壊後のコーカサス諸民族像

ロシア人一般の不満が、1990年代初期から直接コーカサスの人々に向けられるようになったわけではないが、「コーカサス民族という人間」("litso kavkazskoi natsionalnosti")という作られたイメージは、メディアや州政府、様々なナショナリスト団体の努力と連携のおかげで、ロシア社会に蔓延するようになった。

世論調査によると、ロシア人の外国人恐怖症は、1990年代半ばから特にコーカサスに向けられるようになっている。外国人恐怖症および民族恐怖症は、今日のロシアの深刻な問題を体現している。ロシアに在住する非ロシア人は国家に対して脅威であるかという質問に対して、実に55%のロシア人がそう思うと答えているのである。

1990年代後半における社会的発展は、超国家主義者と人種差別主義団体の顕著な増加と、いくつかのネオ・ファシスト運動の拡大をもたらした。彼らにとって攻撃対象となり得るのは、理論的には「スラブ人的な」外見の特徴のない人々すべてであったが、実際に攻撃対象となったのは、黒人(アフリカ人)や、東アジア人、「黒い奴ら」(コーカサス人)、「釣り目の奴ら」(中央アジア人、その他)であった。

コーカサス先住民に対するマイナスイメージは、18歳から25歳までの若い人々の間に多く(約70%)、古きよき時代の思い出がまだ記憶に残っている年輩層(55歳以上)にはそれほど見られない(40%以下)。社会が安定している場合にはこの傾向が完全に逆になる―すなわち若者ほど外国人恐怖症と無縁になる―ということは、非常に示唆的である。1990年代初期の「大いなる遺産」の時代に、若者がロシア社会の中で最も寛容性を持っていたのも偶然ではない。社会の危機とそれまでの世界観の衰退、それに対して社会的手段を行使することのできない状況は、特に理想を主張し理想のために戦う若者に、方向性を見失わせてしまったのだ。

自覚的にせよ無自覚的にせよ、メディアは、ロシア社会の反チェチェン感情に火をつけた主犯であった。モスクワ市長ユーリ・ルシコフが、モスクワのカシールスカヤ通りのアパートの前で、裁判の経過を待たずに「これはチェチェン人のテロだ」と断定したことは、長く記憶されるだろう*1

ウラジーミル・プーチンが首相在任時に言い放った台詞、「(チェチェンの)テロリストは便所に追い詰めて、肥溜めにぶち込んでやる!」も同様に有名だ。その3年前になされた、ミハイル・バルスコフ―当時のロシア保安局長―の発言は、より直截的かつ断固たるものだった。

彼は、テレビカメラの前で、チェチェンの野戦司令官サルマン・ラドゥーエフ一派の行動*2を、一言でまとめてみせた。「チェチェン人どもはどいつもこいつも、ならず者で、盗賊で、殺人犯だ」

政府職員や政治家、識者による、チェチェン人やコーカサス人、他の諸民族に対するこうした発言は、極めて大衆迎合的なものになり始めた。そして、もはや煽動者そのものになったメディアは、それを助長することにためらいを覚えることはなかった。それ自体は日常生活の一部でさえある多くの個別の犯罪行為が、コーカサス先住民が関与していると推定されるやいなや、不必要に民族というレッテルを通して語られるようになった。というのは、こうした犯罪は、多数派であるロシア人の不安感情を増幅し、彼らに対する報復感情を正当化してくれるからである。こうして、ロシア人は、荒くれ者のコーカサス人とどこで遭遇するかわからない―道端で、学校で、政府機関で、サービスエリアで、その他どこででも、彼らと出くわす羽目になるかもしれない―と思うようになるわけだ。

コーカサス人が容疑者だからといって、コーカサス民族全体が特別視されるのは、非常に不思議なことである。もしも、犯罪を犯したのが誰か別の人(必ずしもロシア人ではなく、ウクライナ人でもタタール人でもよい)だったとしたら、その民族的起源が注目されることなど、ほとんどないのだから。にもかかわらず、大半のロシア人は、限定された注意をコーカサスに向けるのだ。そして、「コーカサス・マフィア」はどこにでもいるというイメージを心に抱き続けるのである。

しかしながら、ロシア領内における21の犯罪組織のうち、民族的起源を持ったものがわずか7つしかない(そしてそれは必ずしもコーカサス人でさえない)ということを2002年に明言したのは、ロシア内務大臣ボリス・グリズロフだった。

蔓延した反チェチェン感情は、特に州政府が、準犯罪団体や批判されてしかるべき社会経済の状況から、一般の人々の不満を逸らすためのスケープゴートとして、うまくコーカサス問題を利用している地域で顕著に見られる。

ロシア人の反チェチェン感情は、(たいていはコーカサスの)民族に関わる犯罪事件がニュースに登場するとき、顕著以上のものになる。住人たちの特別な民族意識はしばしば行き過ぎてしまうので、「スラブ民族」対「コーカサス民族」という比較的お決まりの衝突―国中で組織された犯罪グループ―の中で、ロシア人は「自分たちの仲間」の味方をするのである。そして、ギャングたちは、しばしば地域や知事の行政と連携している。

あえて単純化すれば、欧州人が旧ソ連諸国から来たロシア語圏の人々に対してそうであるように、近年平均的なロシア人はコーカサス人に対して犯罪や不法行為を連想するのである。

チェチェン人=テロリスト?

コーカサス感情は、1990年代半ばから主にチェチェン人をターゲットとするようになった。1999年上半期の段階で、チェチェン人に対する憎悪がたった8.4%しかなかったという事実は興味深い。だが、(1999年9月の)ロシア都市部におけるテロ直後に行われた全ロシア世論調査センター(VTsIOM)によると、モスクワ市民の64%が力ずくでチェチェン人を首都から立ち退かせるべきだと回答し、68%がコーカサス人への信頼関係が顕著に悪化したと答えている。

「(1999年9月13日の)モスクワの非定住市民に対する登録規則を提供する緊急手段」に関するモスクワ市議会条例と、「(1999年9月21日の)常習的にモスクワを離れ定住に関する登録法を侵す者への仮の命令の適用に関する」モスクワ市政府の条例は、モスクワの外国人に対するテロを正当化する法的行為だった。ロシア連邦の各地で、後にこれと同様の、あるいはより強圧的な条例が公布されるようになった。

チェチェン人やコーカサス人に対して起こり得ると思われた民族的浄化や大規模な「復讐」が、9月の事件に続いて起こったわけではないが、警察署や地元のロシア人は、こうした条例が先例のない差別や攻撃的な外国人恐怖症に対してお墨付きを与えるものであると解釈した。

チェチェン感情が醒めてきた今日でさえ、ロシア社会の雰囲気は相変わらずであり、この種の行為は、警察や国家公務員がチェチェン人やコーカサス人、ロシア連邦に住むその他の諸民族から金銭的な搾取を行うための好機になっている。

政治ニュースの多くは、様々な日常のニュースによって味付けされた。たとえば、ロシア人の反チェチェン感情と軍事的な志向を煽り、チェチェン戦争を正当化するために、政府筋が1990年から1994年にかけて、チェチェン人こそがロシア人を憎悪しているということを故意に誇張したことなどが、それに当たる。反チェチェン世論は、また(1994、1995、2002、2003、2004年の)ロシア都市部におけるチェチェン人テロリストの陽動攻撃、ロシアのプライドを傷つけることになった第一次チェチェン戦争の敗北によっても強化された。そして、戦間期に多発した、戦争と無関係の人道活動家や建設ワーカー、エンジニア、ジャーナリストの誘拐は、チェチェン人は獣であるという認識をロシア社会に植えつけた。戦間期(1996−1997年)に行われたチェチェン民族による犯罪が、ロシア社会におけるコーカサス人の悪評に根拠を与えてしまったということは、コーカサス人自身が認識しなければならない問題である。

ソ連邦崩壊後、「ならず者」や「テロリスト」「過激主義者」「分離主義者」といった負のレッテルを貼られた単語は、今や「チェチェン人」(あるいは「コーカサス人」)と同義語になってしまった。こうしたステレオタイプな表現は過去に存在したし、今もテレビやラジオ、放送、新聞で、あるいは物語や本の中に、繰り返し現れ続けている。しかし、これはかなり危険なことである。なぜなら、ロシア人の惰性的な民族恐怖症(または地域恐怖症)は、それが形成されることになった政治的な理由が解消された後でさえ、大衆意識の中に生き延び続けるからだ・・・。

*1:1999年8月31日から、モスクワなどの都市部で大規模なアパート爆破事件が続発した。ロシア政府は物証なしに、これらをすべてチェチェン人の犯行であると断定し、9月23日に「テロリスト掃討」を掲げて、再びチェチェンへの空爆を開始した。これが「第二次チェチェン戦争」の始まりである。

*2:第一次チェチェン戦争中の1996年、ラドゥーエフはダゲスタンの町キズリャルにある病院を占拠し、2000人以上を人質に取り、これを包囲したロシア軍との戦闘によって70人以上が死亡した。