アンナの生まれ故郷での追悼集会

http://www.svobodanews.ru/Article/2006/12/11/20061211143508787.html
20061212 ラジオ・リバティ記事 抄訳

12月12日、ニューヨーク大学ジャーナリスト保護委員会アメリカペンクラブの共催で、アンナ・ポリトコフスカヤの追悼集会が開かれ、ニューヨーク市立大学人文センターが一杯になった。

ジャーナリズムは 命をかける意味があるか? アンナの答えはイエスだった。

「ネイション」の計算では ポリトコフスカヤは1993年から数えてロシアで殺された43番目のジャーナリスト。 プーチン政権の6年間で13人目。2004年にモスクワで殺されたポール・フレブニコフの未亡人は、「夫の夢はロシアが近代的な、自由な国になることだった」と述べた。ポリトコフスカヤも同じことを願っていた。一年前ポリトコフスカヤが 「私がまだ生きていられるなんて奇跡よ」と言っていたことを、未亡人は思い出す。
リバティはこの集会にロシア政府の反応を期待しているかと質問した。
「期待しています。人々が出版の自由に無関心でないとき、他の人々の権利を尊重することがどれだけ大事か、その権利のなかには情報を受け取り、情報を広める権利も入っていますが、それが大事であることを人々が理解し、ほかの人達にもそれを理解させようとする時、これはとても力強いメッセージになると思います。ロシアも含めて各国政府はこれを無視できなくなる。ジャーナリストは真実を言う権利を持たなければなりません、それがどんなに不人気な内容で、好ましくない、政府を刺激するようなものであろうと。自分のことを批判する勢力を弾圧するような政府は、民主主義にふさわしくありません」
国際人権団体ヒューマン・ライツ・ウオッチの理事の一人で、ジャーナリストの権利擁護委員会会長のカーチ・マルトンは言った「わたしたちにとってジャーナリストの死は、誰の死であってもジャーナリスト家族の一員が欠けたと同じことです。わたしは アンナを知っていたし、ロシア、ボスニア、ヨルダンの多くの他のジャーナリストたちを知るという幸運に恵まれていました。その多くにもう二度と会えないという不幸にもあったけれど。」

どうして、アメリカのリベラルなジャーナリストがこれほどロシア大統領を批判するのかという質問には「アメリカでは、仲良くするのにお世辞を言うのがもっともいいやり方だとは、誰も見なしていないということを、プーチンは早く理解したほうがいいからだ。アメリカのインテリだけでなく、政治家や、ロシアについて書いているジャーナリストたちが率直に正当な批判をすればするほど、ポリトコフスカヤがやっていたように、真実を書こうとするジャーナリストたちに自由を与えることができるからだ。ジャーナリストたちの課題の一つは政権内の腐敗を社会に知らしめること。アメリカでも ジャーナリストは政府の側から批判されたり、弾圧をうけたり、裁判に訴えられたりしています、ただ、アメリカでは社会がジャーナリストをいじめられるままに放っておかない。政府もジャーナリストの批判に耳を傾け、答えざるを得ない。もちろん、ここでは 少し働きやすいです、ジャーナリストを殺したりしないから」

ワシントンポストの元モスクワ特派員、ニューヨーカーの編集長で、「レーニン廟」の著書でピュリッツア賞を受賞し、「サンデー」という本をポストソ連のロシアについて書いた、デヴィド・レムニクは「ロシアで今もっとも主要なマスコミはテレビだが、それは実質上政府の管理下にある」として「私は正直な直接的な会話を信じている。これが報道の職業としてのやり方だと思う。わたしは外交官ではない。アンナは外交官ではなかった。彼女は生き証人としての言葉で語った。じっと凝視し、分析する証人として。彼女のことをそれ以外の言い方をするのは不誠実だと思う。わたしにとって大事なのは彼女のような言葉で語ろうとすれば、彼女の尊敬に値するだろうと思うことだ」

グローズヌイの「メモリアル」という人権団体の職員 ナタリア・エステミロヴァは、彼女はロシアにおけるポリトコフスカヤの役割と影響について語った。「ポリトコフスカヤが大きな影響力をもっていたのでなければ、ポリトコフスカヤの死が全ロシアにとってこれほどショックではなかっただろうし、こんなに全世界の反響を呼ばなかっただろう」と。

よく知られているように、プーチン大統領の訪独で彼はポリトコフスカヤがロシアの政治情勢に与えていた影響力について「極めて微々たるものだった」と述べている。(TK訳)