欧州人権裁判所に訴えを起こしたアダム・チターエフの物語

ノーヴァヤ・ガゼータ記者、アンナ・ポリトコフスカヤの記事からの抄録

ロシア連邦の人質

英語教師であるアダム・チターエフは、兄とともに欧州人権裁判所に訴えを起こしたために、ウスチ・イリムスク*1で逮捕された。

ノーヴァヤ・ガゼータ アンナ・ポリトコフスカヤ

原文:
http://72.14.235.104/search?q=cache:a22do40Mi4IJ:www.internal-displacement.org/8025708F004CE90B/(httpDocuments)/2E6B71790B9653A2C1257212002BCAFC/%24file/en_Report_Chechen_2006.pdf+The+Story+of+Adam+Chitayev&hl=ja&ct=clnk&cd=10&gl=jp
(pp.75-76)

2005年9月8日

 ロシアの全国テレビ放送を見ている人なら誰でもこのことについては見聞きしているだろう。元戦闘員のアダム・チターエフ―ロシア連邦のお尋ね者の一人であり、ロシアの軍人と国際団体の職員を誘拐したと自白している人物―が、イルクーツク州のウスチ・イリムスク市で逮捕されたこと、そして彼がそこで長いこと英語教師として周囲を欺き続けてきたとされることについて・・・。


 チターエフ兄弟は、欧州人権裁判所で「ロシアに対して」裁判を行っていた。さらに彼らはほとんど勝訴してしまっていた。

 2005年夏、彼らの事件に対する欧州人権裁判所の判断―それはすでに数年にわたって審議されていたのだが―は、当面彼らの勝訴―法律用語では「59334/00号請求認容(原告勝訴)」―という形で幕を閉じた。
 ・・・2000年当時、チェチェンでは彼らの物語などまったくありふれたものであったようだ・・・。

 アルビ(1964年生まれ)は技術者で、生まれたときからチェチェンのグローズヌイで暮らしていた。アダム(1967年生まれ)は学校の教員だった。彼は長いことカザフスタンで暮らしていたが、他の多くのチェチェン人と同様、戦争が始まる直前の1999年に初めてチェチェンに移り、妻と二人の子どもとともに、グローズヌイにいる兄のアルビの元に身を寄せた。

 1999年秋、グローズヌイにあるアルビのアパートがミサイル攻撃によって破壊された。兄弟とその家族は、アチホイ・マルタン*2に住む父親の元に身を寄せることにした。2000年1月15日、内務省(VOVD。新ロシア派)の役人がチターエフ家を捜索し、新品で包装を解く前の携帯電話を押収していった。

 1月18日、チターエフ家の一人が苦情を申し立てるために内務省(VOVD)を訪れた。内務省(VOVD)はなんと彼に電話を返してくれた。ところが、4月12日、彼らは復讐にやってきた。チターエフ家は再び捜索され、再び財産が奪われ、一人が逮捕され、さらに財産が奪われた。

 ・・・ビデオ・カセット・レコーダー、プリンター、テレビ一式、パソコン、暖房器具、「書類入りのファイル」など、金目の物はすべてチターエフ家から略奪された。もっとも興味深いことは、略奪された物品のリストが、内務省(VOVD)の警官であるブラセンコの署名入りで欧州人権裁判所に送られているということである。

 アルビ・チターエフとアダム・チターエフは逮捕された。4月14日、父親のサラウディは、二人がこれからどうなるかを訊くために内務省(VOVD)を訪れたが、自分自身も逮捕されてしまった。逮捕の公式な理由は外出禁止令違反であった(父親は五日後に釈放された)。二人の兄弟はアチホイ・マルタン内務省(VOVD)に17日間拘留された。「二人は椅子に手錠でつながれて殴打された・・・つま先や指、耳といった体の各所に電気を流される拷問を受けた・・・腕をねじ曲げられ、ゴム製の警棒や水を満たしたプラスチックのボトルで殴られ、口を粘着テープやビニール袋、ガスマスクでふさがれて窒息状態にさせられた。犬をけしかけられ、皮膚をペンチでまだら状に剥がされた・・・」

 4月28日、チターエフ兄弟は、内務省(VOVD)の他の被拘留者とともに目隠しをされて連れ出され、生きたまま集団で火葬されるのだと伝えられた。だが、彼らが連れて行かれたのはチェルノコゾボ収容所*3だった。「・・・彼らは尋問室に追い立てられ、両手を頭の後ろに置いた状態でねじ伏せられて、看守に背中を殴りつけられた。尋問室にはアイロンとアイロン台があった。壁には鉤が取りつけられていた・・・彼らはブーツで蹴りつけられ、銃身とハンマーで全身―特に膝頭―を殴られた。拘束服を着せられ、鉤に吊るされて殴打された。手足の指は、ハンマーや柱をぶつけられて押しつぶされてしまった。手足を背中の上で縛られた(「スズメ」の姿勢という拷問)・・・被拘留者は殴られるという恐怖から祈ることもできなかった・・・」

 チターエフ兄弟に運が訪れた。2000年10月、二人はチェルノコゾボから解放された。・・・ごく当然の成り行きとして、彼らは怒りに燃えてロシアの法執行当局―検察庁、裁判所―を訪れた。しかし、そこでは誰一人として彼らの被害に対して関心を持とうとしなかったため、彼らは次に欧州人権裁判所を当たることにした。こうしてチターエフ兄弟―アルビとアダム―は、公式な提訴を行ったのである。

 ・・・アルビはやむをえずロシアを離れることになった。彼は、これほどまでにひどい辱めを受けた場所では、もう暮らしていけないと感じていた・・・一方、アダムはロシアに留まることにした。彼はシベリアに移り、以前と同じように、学校で職を得て教師になった。

 そして、欧州人権裁判所では、苦しみに喘いでいるチェチェン人の長い列に、彼らの訴えが加わり、定期的に緩慢に裁判が進んでいった。

 結果が明らかになった後―とはいえ最終的な判決が下るまではまだ時間が残されていたのだが―、アダムに対する捜査が始まった。再びおなじみの「八着の軍用コートとシャミーリ・バサーエフ*4のインタビューを録音したテープ」が発見された。アダムはお尋ね者のリストに入れられたが、(公式に住民登録をした)法的にまったく問題のない人物であるアダムは、逃げも隠れもしなかったために逮捕されてしまった。これは明らかに欧州人権裁判所における彼の努力に対する報復にほかならない。これは、おまえなどこの国ではゴミのようなものだというロシア国家の企てに抵抗する者に対する、国家の報復である。

*1:ロシア連邦シベリア南部に位置するイルクーツク州の主要都市の一つ。

*2:チェチェン共和国南西部に位置するアチホイ・マルタン地区の中心となっている村。

*3:当時チェルノコゾボ収容所で起こった拷問については、2003年にアムネスティが「ロシア連邦チェチェン共和国内の拷問と虐待」という国際ニュースを発表している。2000年1月にFSBに逮捕されたアンドレイ・バビーツキ記者が尋問と拷問を受けたのも、この悪名高いチェルノコゾボ収容所だった。http://www.incl.ne.jp/ktrs/aijapan/2003/0307110.htm

*4:チェチェン独立派の最強硬派といわれた野戦司令官。2006年7月、チェチェンに隣接するイングーシ共和国で移動中に爆死した。