アブハジア紛争におけるチェチェンの役割

ootomi2007-08-26

August 15th 2007 - Prague Watchdog / Oleg Lukin
Chechen role in the 1992-3 Georgian-Abkhazian war
アブハジア紛争におけるチェチェンの役割

 15年前の1992年8月、グルジアアブハジアの間に戦争が勃発した。当時のグルジア議会議長(当時以下同様)エドゥアルド・シュワルナゼは、紛争を止めるために、アブハジア分離独立派と、コーカサス人民連合(CPC)、それにコサックたちと会談した。

 ロシア参謀本部のヴィクトル・バラネッツ大佐によると、ロシア政府は当時、紛争に関わった双方に支援し、「コントロールされた紛争」を行った。
 しかし、これまで語られていたアブハジア戦争の歴史の中では、シャミーリ・バサーエフに指揮されたチェチェン人グループの参加のみが指摘されていた。これは、その後チェチェンとロシアの間に生じた2度の紛争のために、グルジアに対する軍事行動での協力体制について語ることは避けられていたためだ。それに、バサーエフがロシアの「テロリストナンバーワン」であることを考慮すれば、ロシア政府がバサーエフアブハジア紛争で引き受けて来た軍事的リーダーシップについて、ことさら注意を呼び起こそうとする理由はない。ということで、バサーエフとその指揮下の部隊の活動は、市民に対する戦争犯罪という視点からしか語られないことになる。

 ここで疑問が持ち上がる。未承認国家であるアブハジア政府が、バサーエフを国の英雄と評価する本当の理由は何だろうか?なぜベスランの悲劇が起こるまでグダウタの愛国戦争博物館バサーエフ肖像画が飾られていたのだろうか?もう少し詳しく見ていこう。

チェチェンからの越境

 チェチェンアブハジアは国境を接していないため、両共和国を行き来するにはロシアの領土を通過しなければならない。1991年と1992年に、モスクワとグローズヌイが戦争を始めかねない状況が二度あった(最終的には1994年に戦争が始まった)。そうした状況であっても、チェチェンの部隊がカラチャエボ・チェルケシアに入国したり、アブハジアに向かったりすることは簡単だった。

 ロシアの将軍、ゲンナジー・トロシェフとアナトリー・クリコフの回想録によると、ロシアの警察がチェチェン・ゲリラを拘束した場所として彼らが唯一言及しているのが、ピャチゴルスク(訳注:チェチェンに隣接するロシア・北コーカサス地域の都市)近郊だった。そのため、バスがゲリラにハイジャックされて、行き先がアブハジアに変更されるということが起こった―乗客は「人間の盾」にさせられた―。特殊部隊は、人質を解放してゲリラを武装解除させるために山岳部に伏兵を編成したが、「上からの」命令のために武装集団を「通過」させざるをえなかったと、クリコフは指摘している。

 実際に、チェチェン人とその他の「独立派」に青信号を出すことで、モスクワは一石二鳥を得た。チェチェンその他にいる「連合主義者」(コーカサス連邦国家構想を指すと思われる 訳注)のアブハジアへの越境を後押しすることでグルジアを弱体化させて、グルジア政府から軍事的・政治的譲歩を引き出そうというわけだ。

バサーエフの試練:または歴史におけるバサーエフの役割

 グルジアアブハジア戦争におけるバサーエフの役割は、彼の異常なほどの昇進に見ることができる。開戦時にはバサーエフは小隊長だったが、後には中隊(アブハジア軍では最高位に当たった)を率いるようになり、1992年10月にはガグラ(訳注:グルジアの都市)前線の司令官に昇進した。

 司令官の権限を得たことで、バサーエフグルジアに対する最初の攻撃作戦を成功させた。1992年10月初頭、コーカサス人民連合(CPC)率いるアブハジア軍とチェチェン軍、ロシア軍は、ガグラ地区のグルジア軍に対して大規模な反撃を開始した。独立派は都市を奪回しただけでなく、ロシア国境をプソウ川にまで広げることになった。結果として、西アブハジアにおけるグルジアの影響力は弱まり、アブハジアはアドレル地区で国境外から容易に武器を入手できるようになった。

 明らかに、独立派指導部にとって、バサーエフがこの作戦を行ったことは大きな意味を持っていた。1993年1月、バサーエフコーカサス人民連合(CPC)遠征軍の司令官に就任し、後にアブハジアの防衛副大臣にまで登りつめることになる。

 けれども、ジャーナリストのエフゲニー・クルチコフ(南オセチア国家警備隊)は当時を振り返って、1993年3月中旬に独立派がスフミ(訳注:アブハジアの首都)の襲撃に失敗したことについて、バサーエフの責任を指摘している。一方、アブハジア側は、この戦闘に負けた主な理由として、ロシア軍の奇襲部隊がグルジア側に寝返って「二正面作戦」を余儀なくされたことを挙げている。

 さらに、バサーエフには激戦時にオセチア・カバルディノ部隊への増援を拒否した責任がある。1993年7月に独立派が東アブハジア(オチャンチラ地区)に上陸したときのことだ。攻撃部隊の半数以上が殺され、グルジア側が勝利を謳った。ほぼ間違いなく、これは独立派指導部の計画だったのだろう。グルジア軍が上陸部隊に対応している間に、アブハジア軍とチェチェン軍がグミスティン前線を―グルジア軍の想定外の西側から―突破した。この作戦の目的は、シュロマ村を含むスフミ山岳地帯での戦略的優位を確保することだった。東からの上陸は、陽動作戦であり、あらかじめ多くの死者を想定したものだった。

 1993年7月末、グルジア指導部は停戦協定に署名し、(アブハジア自治地区からの撤兵と「合法的な政府」の復活が明記された。休戦は9月半ばに破れた。グルジア西部のミングレリアで、グルジア軍は、ズビアド・ガムサフルディア前グルジア大統領の部隊とアブハジア軍、スフミの最終攻撃に参加した連合軍に襲撃された。

 クルチコフが言うには、当時バサーエフは軍事作戦から手を引いていたという。この解釈には、グルジアアブハジア双方から反論があり、遠征軍とバサーエフチェチェン人部下がスフミの襲撃に積極的に関わっていたと報告している。これは、事件に関わったロシア側(ロシア軍事情報部(GRU)中佐のアントン・スリコフだという情報もある)の証言―「私は一度ならずバサーエフに会った。バサーエフが防衛副大臣としてアブハジアを勝利させるために今回も尽力したのは間違いないと思う」―からも間接的に裏づけられている。

結果

 スフミでの休戦協定で提案された武装解除の手続きは必然的なものだった。ロシア国防相パヴェル・グラチェフは、紛争当事者を強制的に分離しようとしなかった。クレムリンが行った唯一の支援は、包囲された都市からシュワルナゼを緊急避難させたことだけだった。

 スフミの戦いは12日間続き、戦闘終了後、グルジア軍は全戦線から撤退した。アブハジア内でグルジアの勢力圏に残された唯一の地域はコドリ峡谷上部のスヴァネチヤだった。グルジア人は、新たに入植した勝者とスフミの敗残兵の復讐を逃れて難民になった。

 アブハジア戦争はグルジアの敗北に終わった。シュワルナゼを軍事的・政治的な罠に誘い込み、クレムリンはミングレリアの親ガムサフルディア軍を弾圧させ、アブハジアをロシアの保護領編入し、「平和維持軍」を駐留させた。

 チェチェン軍には1万もの兵士が参加し、1年後にはかつての連合軍と熾烈な戦いをすることになる。1994年11月、グローズヌイ街頭で、反ドゥダーエフ勢力に与えられた戦車が乗員ごと焼き払われる。1996年8月、バサーエフは「スフミ再演」を成功させ、ロシア軍をチェチェンの首都から撤退させ、クレムリンアスランマスハドフ率いるチェチェン使節団との平和交渉に引きずり出すことになる。

 クレムリンが南に放った「分離主義のブーメラン」は、早くも北に戻ってきており、ロシアの北コーカサスに決定的な一撃を投げかけている。


 原文:
http://www.watchdog.cz/?show=000000-000005-000004-000151&lang=1