アンナはどのように殺されたか

アンナ・ポリトコフスカヤ暗殺事件の容疑者を逮捕

2007年8月27日 ノーヴァヤ・ガゼータ
原文
http://www.novayagazeta.ru/data/2007/65/33.html

 アンナ・ポリトコフスカヤ暗殺に関連して10人の容疑者が逮捕された。本日、チャイカ検事総長が記者会見で明らかにした。検察庁のピョートル・ガリビャン特別捜査官も同様の見解を示している。容疑者はいずれも犯罪行為に関与した疑いで告発された。裁判所は、当局が容疑者を8月15日から23日まで拘束し、逮捕する許可を下した。目下、当局は積極的に事件の捜査―尋問と捜索―を行っている。

 もちろん、これでポリトコフスカヤ暗殺事件が解決されたというのは時期尚早である。共犯者として逮捕された容疑者の中には事件への関与が明らかにされていない者もいる。このような複雑な事件では―第一級殺人であることを考えればなおのこと―推定無実の原則が働かず、冤罪による逮捕も起こりうる。当局は、裁判が破綻することのないよう、すべてを充分に説明するべきである。そしたわけで、我々ノーヴァヤ・ガゼータでは、複数の記者が独自に調査を行い、アンナの暗殺事件を追ってきたが、その詳細のすべてをここでお話するわけにはいかない。

 では、逮捕されたのは誰だろうか?第一に、請負殺人を専門とする比較的大規模な民族グループからなる犯罪組織のメンバーが数人。第二に、警察と、殺人やその他の犯罪行為の隠蔽を命じられ、自らも恐喝などの犯罪行為に手を染めている特殊機関の職員(元職員と現職を含む)が数名。ノーヴァヤ・ガゼータは、彼らの服務記録と彼らが関わった犯罪についての情報を入手しているだけでなく、彼らがアンナ・ポリトコフスカヤの暗殺の計画と実行に関してどのような役割を担ったかということについても、ある程度予測がついている。


 逮捕された容疑者とその人数についても、いくつか言えることがある。一つ目は、検察庁の調査によっても、ノーヴァヤ・ガゼータの独自調査によっても、「有益」な協力関係にある少なくとも二つの強力な犯罪組織に行き当たること。これは、アンナが繰り返し描いてきた犯罪と治安機関の癒着である。軍隊の将校が権力を悪用することへの歯止めはない。これが、数年前から始まり、重犯罪および違法行為に根ざした共同ビジネスであるということは、強調しておくべきだろう。もしも、この癒着を解決することができれば、有名ないくつもの未解決事件の詳細が明らかになるだろう。二つ目は、暗殺は、この手の「問題」を何度も解決してきたプロが慎重に計画し、準備していたということである。三つ目は、暗殺に多額の資金がかけられたということだ。誰が暗殺を命じたかということは、まだ語るべきではないだろう―とりわけ事件の状況をめぐって政治的な特殊作戦が行われかねない選挙前には―。さらに、ノーヴァヤ・ガゼータは、起訴にあたって依頼人の名が明らかにされるという保証はないと考えている。それは捜査上のミスがなくても起こりうるだろう。

 これまでにも何度も述べてきたが、ノーヴァヤ・ガゼータは、自社の記者の殺害を捜査している当局に対抗しているわけではない。我々は互いに協力しているのであり、協力が有益であるということに関しても合意している。我々は、この問題とは直接関わらない「合理的な理由」が我々の共同作業の成果に影響しないということを確かめたいだけだ。我々が望む成果ははっきりしている。アンナを暗殺した実行犯と共犯、真の依頼人を明らかにさせることだ。

 ノーヴァヤ・ガゼータは、アンナ殺害の状況を分析することで、事件のおおよその状況を再構成した。仲介人は2006年の春または夏に命令を受けた。9月の始めにはポリトコフスカヤは尾行を受け始めた。それ以前に、彼女は代行機関を通じて住民票を移していた(彼女はレスナヤ通りのアパートに引っ越してきたところだった)。彼女は朝から晩まで尾行を受けていた。総じて、アンナは多くの脅威―隠されたものからあからさまなものまで―を自覚しており、極めて慎重だった。彼女はいつでも自分自身や家族に起こった「不気味な出来事」をすべて編集部に報告していた。

 けれども、8月の終わりから9月の始めにかけてはそうではなかった。彼女の母親が入院し、父親も亡くなったばかりだったのである。その時期、アンナは普段の出勤日とは異なり、同じ場所を行き来していた。朝には犬の散歩をし、買い物をして、病院の母を見舞っていた。午後になるとまた犬の散歩をして、夕方には再び病院に行った。家族に何かがあると、自分自身のことにまで気が回らなくなるものだ。それでも、アンナは自宅の階段に怪しい人物が何人かいたと語っていた。

 その怪しげな人物―より正確にいうとその中の一人―は実際に彼女と会わなければならなかった。殺害犯は、場所を偵察するために、少なくとも二度、ポリトコフスカヤの後に続いて、事前にアパートの敷地内に入っていたと我々は考えている。10月7日の16時1分に、殺害犯は5発の銃弾を放った。最初と最後の銃弾が額に命中した。殺害現場にはサイレンサーつきの改造ガス銃が残されていた。この銃で以前に犯罪が行われたという記録はない。

 殺害犯は入り口を走り出て、車に乗り込み、現場を去った。こうした一連の―誰かが作り出しジャーナリストが受け入れた―筋書きが公表され、捜査に強い先入観を与えることになった。

 お気づきのように、こうした簡明な時系列情報の裏には、まだ明らかにすることができない多くの重要な情報がある。なぜこれほど捜査が長引いているのか、なぜ我々ジャーナリストがこれほど長いこと「ノーコメント」を通しているのかという質問や非難を受けることも少なくない。捜査の期間について言えば、アンナ・ポリトコフスカヤはノーヴァヤ・ガゼータに500本を超える記事を寄稿している。そのほとんどすべてが彼女の死に関わっている可能性がある。それはチェチェンに関する問題だけではない。彼女の取材はより広範囲に及ぶ。ダゲスタンやイングーシ、カバルディノ・バルカリア、アストラハン、バシキリア、サンクトペテルブルグ、モスクワといった具合に。そうしたわけで、彼女の殺害犯については当初から多くの説があった。最初に浮上した説の一つは、ラピンという名のハンティ・マンシースク地域の特殊警察官に関するものだった。この人物はポリトコフスカヤを幾度も脅迫していた。現在ラピンは別件で裁判にかけられている。ラピンの共犯者たち―同じく治安当局者―もFSBが行方を追っていた。彼らはポリトコフスカヤ暗殺事件の捜査線上にも上がっていた。そのうち一人はハンティ・マンシースク市で見つかった。彼は潜伏していたわけではなかった。それどころか自宅で生活し、職務を続けていた。けれども、彼らはアンナの殺害には関わっていないことが明らかになった。

 こうして、一歩ずつ、一つ一つの可能性を追って、綿密な捜査が行われた。当局の捜査とノーヴァヤ・ガゼータの捜査をめぐっては、様々な出来事が起こった。裁判を断念させ、捜査を混乱させようという妨害もあった。ノーヴァヤ・ガゼータの株主であるアレクサンドル・レベデフが情報提供者にかけた賞金を得ようとした人々もいた。我々は脅迫もされたのだが、それについてはいずれお話しよう。

 最後になるが、我々が同僚に口止めをしていることを快く思っていない方もいると思う。我々が誰かと癒着しないようにしているため、沈黙を守っていると言う人もいる。ゴシップ紙は独自調査を行い、「証言者」(アンナの親戚や事件と無関係な人々)について実名を出してバカげたことを報道していた。こうしたことによって、「証言者」の命が危険にさらされることになった。政府の高官が述べる「正しい」仮説を信じている人々もいる(ところで、ロシア大統領補佐官シュワロフやラムザン・カディーロフは事件について自説を吹聴していたが、彼らはまだ取調べを受けてもいない)。

 捜査の裏側にはこうした複雑な事情があった。「なぜこれほど時間がかかるのか」という質問に対する、これが答えである。そして、我々は判決が疑う余地のない真実であることが確信できるまで待ち続けるだろう。

ノーヴァヤ・ガゼータ編集部
 2007年8月27日