チェチェン民族強制移住の記念碑移動計画が開く傷口


 チェチェンでは古い傷がまた痛み始めている。スターリン時代の悲劇をめぐる、古い記念碑の移動をめぐって。
 グロズヌイに、1991年のソ連邦崩壊から始まった不幸な独立の時代に立てられた記念碑は、拳の中に、たくさんの墓石と、大きな短剣が握り締められた形をしている。
 この記念碑は、チェチェンの首都に加えられたロシア軍の爆撃から奇跡的にも生き延び、「我われは屈しない、我われは涙を流さない、我われは忘れない」という標語を掲げつづけてきた。
 ロシア政府によって送り込まれたチェチェンのリーダー、ラムザン・カディロフは、この記念碑を市内中心部から郊外のロシア軍基地の敷地内に移動する命令を出した。公共の議論はないまま、先週末からこの作業は開始され、多くのチェチェン人たちは怒りを隠さない。
 「誰にも記念碑を動かす権利なんかないはずよ。あの記念碑は、誰もが知っている歴史があるからこそ、街の中心部に置かれてきたんだから」と、主婦のファティマ・イブラギモーワ(35)は言う。
 この記念碑は、ソ連時代の1944年に起こった、独裁者ヨシフ・スターリンによるチェチェン人とイングーシ人あわせて50万人の、中央アジアの草原への強制移住を刻んだものだ。強制移住された人々のうち1/4が、凍死、餓死、疾病によって命を落とした。欧州議会や、多くの歴史家はこれをジェノサイドと形容している。
 生き残った人たちが故郷に戻れた1950年代の終わり、彼らはチェチェンアイデンティティーが拭い去られようとしているのを見ることになった。公文書館は焼かれ、村落には入植がされ、墓地からは墓石が外されており、これらは建設資材に転用されていた。
 独立派のリーダー、ジョハール・ドゥダーエフが権力の座に着いた 1991年、彼はこうした先祖代代の石をチェチェンの「churty」と呼んで、強制移住の記憶の焦点にした。
 これらの墓石は、18-19世紀にこの山岳地域がイスラム教に改宗するよりも昔の、異教のシンボルも含む複雑で独特な文様に彫刻されている。

 独立派と容疑をかけた人間には拷問さえ辞さないとされるカディロフ政府は、この記念碑が、再建の進むグローズヌイの中心部から取り除かれることが望ましいと公言している。
 「いくつかの道路の交差する狭い場所にあるから、記念日に墓碑を訪ねる人にとって不便だからです」と、グロズヌイ市長ムスリム・フチーエフは言う。

 しかし一部のチェチェン人たちは、カディロフが、ロシアに対する挑戦のシンボルを隠蔽し、今日も小規模ながら続いている戦争の最初の2年目、1996年に殺害されたドゥダーエフの思い出をつぶそうとしていると感じている。
 大学生のゼネータ・アミルハノーワは、この記念碑が独立運動とは関係なく、この場に置かれつづけるべきだと感じている。
 「誰が作ったかが問題だって言うのなら、私たちは指導者が代わるたびに新しい碑を作らなくちゃいけなくなるじゃない?これは私たちの歴史そのものなのに」
 ロシアの人権団体メモリアルで働くナターリヤ・エステミローヴァは、この碑が唯一のものであることを強調する。「これはたった一つしかない、人々のための記念碑なんです。これが出来たとき、チェチェン人はようやく強制移住について語り合うことができたんです。人々はあの災いが決して繰り返されないように、とてもこの碑を大事にしてきました。痛みが強いられ、許されなかった年月があったからです」記念碑の移動先が、拷問の現場と言われているハンカラのロシア軍司令部であることについても、エステミローヴァは侮辱だとして憤っている。「ハンカラとは最高にいい場所だって、みんな言ってます」
 チェチェン国立大学の歴史学部長を務めるムーサ・バガーエフは、ハンカラへの移動について、「論理的にはこれ以上ない場所だが、すでにある記念碑を移動するには間違った場所でしょう」と指摘する。
「彼らはすこしづつあの碑を刻んでいったのです。今、碑はあそこにあるのだから、動かさないのが一番です。記念碑というものは誰か個人に属するものではありません。歴史も、書き換えるべきものではないですから」(アスラン・ナルディエフ/AFP)

Relocation of Chechen 'genocide' memorial opens wounds
Aslan Nurbiyev Published: AFP Wednesday, June 04, 2008
http://www.canada.com/topics/news/world/story.html?id=9f271375-e372-4ce9-acb0-64ce7bf80458