Mさんのこと

 Mさんのことを考えると、いつも、どうしていいかわからない、苦しい気持ちになる。

 Mさんは、クルディスタンから日本に来た。クルディスタンとは、「クルドの国」という意味だ。しかしその国は、国連加盟国ではなく、世界のどこの国からも承認されていない、トルコ東部の一つの地域の呼び名に過ぎない。
 そのトルコでは、「クルド人」という呼び名自体が許されない。トルコ政府は「クルド人などいない。東部に住んでいるのは〈山岳トルコ人〉だ」といい、その存在すら隠蔽しようとしている。

 一度、イスタンブールに旅したことがある。建築にも芸術にも、さまざまな文化を吸収して大きくなっていったオスマン帝国の都市らしい、懐の大きさを感じる町だった。しかしその一方で、街角には「新月旗」と呼ばれるトルコの国旗がひるがえっており、文字通り、この観光都市のあらゆる大通りを赤く染めているのだった。
 何のために、国旗はこうまで執拗に繰り返されるのか。旅の間、しきりにそう思った。

 Mさんのことに戻ろう。
 彼はクルド人に生まれた。そして少年時代からトルコ政府の弾圧にさらされた。家を焼かれたこともあったという。
 平和な観光都イスタンブールぐらいしか知らない、私のような外国人には想像もつかないことだが、トルコ東部では、今もトルコ政府軍によるクルディスタンへの軍事攻撃が続いている。つい去年も、イラクと接する、南部シュルナク県の国境地帯でトルコ軍が空爆を行い、クルドの民間人が35人(うち18人は子ども)も死亡するという、悲惨な事件が発生している。
 このような少数民族の弾圧があるために、難民条約に基づいて、欧米諸国ではクルド難民の受け入れが、毎年数千人の規模で行われている。

 ところが、日本にやってきたMさんに対する、政府の対応は冷たかった。難民申請を行っている最中にも関わらず、入国管理局の収容所に強制的に収容され、家族と引き離された。そこから出されても、労働は許可されない。妻と4人の子どもともども、飢え死にしろというのだろうか。

 細々と、支援者のカンパで食いつなぐ生活。私もそのごく一部を負担していたものだが、これを「篤志」なことだと、胸を張る気にはどうしてもなれない。Mさん家族は、どれだけそんな状況に傷つき、無力感を感じていたことだろうか。
 ビザなし、仕事なし。子どもは日本の学校でいじめられた。アパートの大家は理由にもならない理由で難癖をつけ、立ち退きを迫っていた。

 これは二度めの迫害だったのだ。
 トルコ政府による迫害から逃れたこの一家は、日本──政府だけでなく、日本の「ごく普通の人々」からも迫害を受けていた。こういうものを、「排外主義」と呼ぶ。
 Mさんの妻子は、あの原発事故と放射能の拡散を知って、とうとう折れるようにトルコに帰って行った。けれども、Mさん自身はあまりに危険で帰れない。やがて頚椎ヘルニアを患ってしまったが、健康保険にも加入できないため、本格的な治療は受けることができないでいる。

 Mさんには4人の子どもがいる。うち2人はかわいい盛りの乳幼児だ。彼らはもう日本に来ることが、少なくとも5年間はできない。Mさんがこの子たちに会えるとすれば、それは日本政府による強制送還に応じて、トルコ政府の官憲が待ち構えるアンカラ空港へとフライトするしかない。

 こんな状況を生み出したのは、いったい誰なのか。それを考えるとき、いつも、イスタンブールの街路を赤く染めていた、あの新月旗を思い出すのだ。

 さしあたって、Mさんを苦境から助けるためには、また国家の力を使わなければならない。日本政府が彼に難民認定か「在留特別許可」を出せば、彼の地位は安定し、労働も可能になる。近い将来に家族の呼び寄せもできるかもしれない。
 政府にはいろいろな働きかけをしてきたが、それだけのことが解決できずにいる。

 私たちの住む「平和な日本」とは、こういう場所なのだ。

2012年10月9日