テロ有罪犯・ススハノフ

ootomi2006-10-29


(記事について: アンナ・ポリトコフスカヤの最後の記事のひとつです。チェチェン人の若者たちが続々逮捕され、ロシア各地の強制収容所に送り込まれていきます。朗らかな大学生がいつのまにか「テロリスト」の嫌疑を着せられて・・・。その人々は今牢獄で絶望し、やがては全てを呪いつつ、生き残れば故郷に戻るのでしょう。その時、何が起こるのか。「わたしは彼らの憎悪が恐ろしい。もっと恐ろしいのは 自分と同じ人間に、そういう憎悪を貯めるよう強いる者たちだ。憎悪は必ずあふれ出すのだから」と、彼女は書きます。翻訳してくださった方々に感謝します。(チェチェンニュース発行人)
http://2006.novayagazeta.ru/nomer/2006/69n/n69n-s27.shtml
ПОСАДИЛИ ЗА НАЦИОНАЛЬНУЮ ПОЧВУ
В крови осужденного за терроризм Ислама Сусханова обнаружен «чеченский след»

民族が理由で投獄
テロリズムで有罪とされたイスラム・ススハノフの血には「チェチェンの臭い」

わたしは憎悪が怖い

世界中が統御不可能な核反応を怖がっているが、わたしは憎悪が怖い。統御不可能で、蓄積を続けていく憎悪が。そのやり方はともかく、世界はイラク北朝鮮のボスを処理するテコは思いついた。しかし個人的な復讐がたどっていく道筋は、誰も決して察していない。世界はこれに対してまったく無力だ。

わが国では、今まれに見る無責任な愚行が行われている―数百人の人々に、憎悪の念を蓄積することを強制し、そうすることで残りの人々の将来をまったく予測のつかないものに変えている。

「テロ」行為の罪で投獄されているチェチェン人たちをどうしようとしているのだろうか?まだとても若い数百の人たちには、まだまだ長い刑期が控えている。収容所では憎まれ、そのために彼らに対して「特別なあつかい」が練り上げられている、それは同房の者たちや管理者の側のいずれもがありとあらゆること考え出しているのだ。

なぜ「」つきのテロなのか? それを説明しよう。

三つ目の戦争

このチェチェン人たちとはどういう人たちか?大部分が、かつての大学生たちだ。捕まる前の人生経験は、3つの戦争以外はないに等しい。子供の頃(第一次チェチェン戦争)、第二次チェチェン戦争が ティーンエージャーのころ、そして三つめの戦争とはこの取り調べという戦争だ。

つまり、こういうことだ。 これらの学生―「テロリスト」たちは2002年、2003年、2004年の間に行われてきた違法な様々な手続きの産物なのだ。この時期、北コーカサスでの法律運用は極めて特異なものだった。大量の一斉検挙―チェチェンで一度に数十人ずつ学生たちが「掃討」された。そのあと「掃討」された者たちは拷問に掛けられた、これは衛生検査とおなじくらい当たり前のこととして。多くのものが消された―主として自供しなかった者たちが。「正直に自白した者たち」は、悪意たっぷりになすりつけられた「罪」のために有罪とされた。そうした取り調べの書類の質は問われなかった。その通りなのか?そうでないのか? 罪が有るのか?無いのか?それは神のみぞ知る、本格的な取り調べというものは一切なかったのだから。

そして2005年から すべての破毀審(касаций)をおえたあと、「掃討」されたチェチェンの学生たちの世代が各地の刑務所に送られるようになった、すべて15年以上の刑期で。そこで彼らの第4番目の戦争が始まった。自分自身との戦いだ。自分を守る戦いかもしれない。いや、自分に対する戦いか・・・今、2006年にこれらの施設からはいってくる情報によると、かつての模範的な少年たちは、すでに悪質な累犯者に似てきているそうだ。

イムラン・ススハノフの場合

その典型的な例を挙げてみよう。1984年生まれのイスラム・ススハノフ。彼に会ったことはない。今はそれは不可能になってしまった。ロシアの監獄当局であるФСИНは、この種の受刑者とのいかなる接触も禁じている。紙の資料によって再現してみる。

1999年、戦いが始まる直前、イスラムは グローズヌイの第38学校を卒業した、大学進学のためにサラモヴァ校長が書いた内申書ではとても良い少年だったとお決まりの言葉を書いている。「授業中はとてもきちんとしていて勉強家で実行力のある生徒だった。一生懸命勉強していた・・・ 尊敬されていた・・・ 何か頼まれれば責任をもってそれを果たしていた・・・」

2000年に、イスラムチェチェン教育大学に入学、激しい戦闘があったあと新入生の募集が再開されたのはそこだけだった。芸術学部に入った。そこでも「勉強も学部や大学のそのほかの活動にも積極的に参加・・・絵画や構成、彫刻に特別な興味を示し、将来性のある学生・・・」と書いたのは芸術学部の学部長代理のスレイマノワだが、これは既にイスラムが「爆弾」のことで「掃討」されてからレーニン地区の検察あてに書いたもの。

おなじ検察にあてた、サッカーチーム「ヴァイナフ」のヘッド・コーチのインデルビエフの上申書もある。「サッカーチームに来ていたときの彼はいつもお行儀の良いきちんとした青年だった。イスラムが参加しているサッカーチームと試合に遠征することがあった。短気なところも、攻撃的なところも全くなく、とても内気で控えめでおとなしい子だった。過激な行動に参加するなどの傾向はまったく示していなかった」

コーチも学部長代行も、うそをついていたのだろうか? あるいは経験豊かな人たちとはいえ、天使のような面の下に悪魔の顔が隠れているのをうっかり見過ごしたのだろうか?内申書の内容と起訴状の内容はまったく両立しない。こんなことを同じ一人の人間が全部やることはとても間に合わない。有望な学生で、サッカーの遠征試合に出かけて行きながら、教育大学の学友たちとロシアの軍人を吹き飛ばすために手作りの爆破装置を作っていることなど。訴追によれば、武装勢力のススハノフを保護観察にとどめておくことなどできない。かれの本当の趣味は彫刻とはほど遠い。

矛盾に満ちた証拠と「自白」の採用

ススハノフについてのエピソードが3つある、「ギャンググループ」の刑事事件、このグループは「身元の確認できない"アブドゥルーアジム"」に指揮され、「出所不明の資金」で活動している。すべてのエピソードの根拠は彼の「正直な自供」だ。判決から判断すると裁判所は、詳細を確かめもしなかったようで、これらのエピソードが検察側が最初に叙述したとおりに、判決文にそのまま入っている。

ススハノフは以下のことを認めた。2002年6月6日グローズヌイ市のジュコフ通りの破壊された建物に手製爆弾をしかけた、それは6月9日に(ここで具体的な名前が入っている)ペンザ方面からきている警察隊を吹き飛ばすためであった。もっとも、その人たちは判決を読みつつ、なぜかその場で、まさにその場所でその年の3月9日に爆破された、と主張していた。6月9日にはすでにチェチェンよりずっと離れたところで受けた負傷の治療はおわっていた・・・いったいどういう理解すればいいのだろうか?

「2002年8月3日 検問所の銃撃」というエピソードもまったく同じたぐいの法的な混乱がある。まさにその日に負傷した警察官たち(これも苗字と職位がしめしてある)は彼らは自動小銃で8月3日に銃撃されたと主張し、受けた傷もその証言に合致している。ところがススハノフは、「自分は検問所に向けて擲弾筒を撃った」と自白しているのだが、どうしてもどういう角度で、どの方向に検問所があったか思い出せない・・・

3つ目のエピソード。2003年12月13日の出来事。ススハノフはギャング集団の仲間と一緒にブティリン通りで現行犯で捕まった。前日に設置した爆破装置の電池を交換していたところを。彼らを捕まえた二人の警察官たちは 裁判では「(爆破装置を)ブティリン通りで12月14日に押収した、これは古くてほこりまみれだった」と報告している。「作戦上の情報を」調べるために、押収した・・・

それがどうかしたか?なんでもない。本質的に誤ったままで、判決には法的効力が生じた。(一連の作業をした)「製造会社」は、取調官―ゴルチハノフ(グローズヌイ市レーニン区検察)、裁判官―V.アブバカロフ(チェチェン共和国 最高裁判所)。わたしがススハノフを弁護しようとしていると思われるだろうか?よくわが国でいわれる「味方の兵士たちを殺している奴」の弁護を。

そうではない。こういう質の裁判と取調べでは イスラム・ススハノフだけが彼は何の罪を犯したのか、犯していないのかを知っていて、ほかには誰にも分からないというそのことが問題なのだ。

わたしは 皆に知っておいてほしい。どんなイデオロギーのソースをかけて料理しても、法律や権利に暴力を加える免罪符は誰にもないとわたしは確信している。法律や権利に対する暴行は、空恐ろしい結果をもたらすことになる。犯罪を犯した者は常に、有罪にされた、と叫ぶチャンスが残され、身の程をわきまえさせる=罪を素直に認めさせることは、何によってもできない。そして、無罪なのに有罪とされた者たちは、気が狂っていくだけだ。

刑務所で作られていく「罪」

ススハノフは14年の収容所での厳重規則(「厳重規則」は、一般規則、厳重規則、特別規則という刑務所の規律の重さのカテゴリーを指す)での服役という刑を受けた。チェチェン関連のすべてのリスト通りの罪状で「 ギャング」「テロ」「違法な武装勢力」そのほか。 2005年の12月から 彼はスヴェルドロフスク州の収容所に居る。3ヶ月間は 矯正収容所5(ニージニー・タギル)ここで3ヶ月間独房に入れられる。となりの独房も おなじような罪状の若いチェチェン人たち。 ススハノフの母親アマンタが 週に2回書留を送るがススハノフには渡されない(このことは後から調べて分かった)。管理者は恥じらいもなく、ススハノフに申し渡した、これは今後どのチェチェン人に対しても同じようにする、刑期が開けるまで。2006年3月7日、ススハノフは自殺しようとした。5月21日にもう一度。祈りをあげることは禁じられていた、そのことで 手錠をかけられ、懲罰独房に入れられた。矯正収容所の管理局によると、受刑者ススハノフの評価は否定的だ。

スヴェルドロフスク州検察庁のワシリエフ刑罰執行適法性監督部長が、刑事犯の処罰執行の合法性を管理するために書いたもの。「12の項目で懲戒処分を受けている。懲戒処分の理由は、検察庁によって適法で根拠のあるものと認められた」ススハノフは反抗を続けている。集団で「手首を切る」ことに参加する。収監条件に抗議する身体損傷。スヴェルドロフスク州の人権全権T・メルズリャコヴァがやってくる。ススハノフと面会すると彼は 不当な判決を見直し、祈りをあげることを許可し、殴らないようにしてくれと要求しているだけだと訴えた。そのあとメルズリャコワは自分が会って話をしたチェチェンの受刑者たちの母親に当てて絶望的な手紙を書く:「これらの収容所からできるだけ早くチェチェンに近いどこかほかへ息子たちを移送してもらうよう急いでФСИНに要求しなさい。そして私自身も、ФСИНの長官カリーニン・Yuに訴えることにする」

カリーニンはこれを拒絶し、ススハノフは矯正収容所12−「特に危険な累犯者」用の収容所に移される。このように初犯のものと累犯者たちと混ぜて収監することは法律で禁じられているはずだ。矯正施設というもともとの意味を念頭に置くとすれば。

しかし、ススハノフの個人記録には、そのときまでに細かい評価がどっさり加わっていた。いわく「逃亡の危険」「人質を取る危険」。

「はにかみがちの、控えめで優しい」2004年の少年は、2006年には、犯罪を繰り返したわけでもないのに反抗的な累犯者に変わってしまった。もっともこれらの評価を信じれば、ということだが。
(訳注:1度犯罪を犯せば前科者になる。前科者が犯罪を繰り返すのが累犯者で、刑罰も重くなる。したがって、「初犯」で「累犯」扱いはおかしいということを言っている。「初犯」も信じていないわけだが)

私たちは何を期待しているのか?

私たちはススハノフに何を期待しているのだろうか?これらの「掃討された」人たちに?

彼らが収容所で朽ち果ててしまうことか?どうして彼らは祈りを捧げてはいけないのだろうか?彼らがその信仰を後戻りできないほど確立するようにこっそり祈りをあげることを期待しているとでも?それとも子供の頃から教えられてきた祈りを忘れることか?そして他の祈りを捧げるようになることを?

ススハノフが釈放されるとすればそれは2017年だ。そのとき彼は34才。他の者たち、同じ「掃討された」世代の者たちも同じ頃に収容所を出てくる。35才か37才で。社会に戻るとき独身で、子供もなく、教育もなく、職業もない。しかし、心の底には煮えたぎる思いを秘めているだろう。人生をめちゃめちゃにされた、正義などない、という思いだ。

「・・ 本質的にはこういう矯正収容所は、今や有罪判決を受けたチェチェン人たちの強制収容所と化しています」
と、有罪判決をうけた者の母親たちが編集部に手紙を寄せている。
「あの子たちは民族的な差別を受けています。独房や懲罰房から出してもらえません。規則違反をするように挑発されるんです、規則を守らせてもらえない・・・大部分、ほとんどの規律違反や『事件』はでっち上げで、証拠がありません。厳しい条件におかれ、人間としての尊厳を踏みにじられてあの子たちの中に、すべてに対する憎悪がはぐくまれています。これは矯正ではなく、絶滅です・・・人生を台なしにされ、意識をおかしくされた人たちの大群が戻ってくることになるんです・・・・」

この母親たちは何を書いているのか理解している、母親たちだけが 彼らと腹を割った話ができる、それも一年に1回か2回。わたしは彼らの憎悪が恐ろしい。もっと恐ろしいのは 自分と同じ人間に、そういう憎悪を貯めるよう強いる者たちだ。憎悪は必ずあふれ出すのだから。

2006年9月11日
アンナ・ポリトコフスカヤ