ハッサン・バイエフ氏 東京講演会「チェチェンの現在を語る」

ootomi2006-12-04


18:45開始。
 林克明: ほとんどが初めての方のようなので、まずチェチェンに関する基礎知識から話をさせて頂きたいと思います。チェチェンは油田で有名な黒海カスピ海沿岸のコーカサス地域に位置する小さな共和国です。日本で言えば岩手県ほどの大きさで、人口は1つの大きめの都市とあまり変わりません。チェチェンはロシア帝政時代から何度も軍事侵攻を受け、長い間それに伴う抵抗がありました。最後の抵抗はカフカス戦争と呼ばれる人口の半分が戦死した戦争で、その敗北によって1861年帝政ロシアに組み込まれました。ロシアの一部になった訳ですが、すんなりとロシア化して行った訳ではなく、チェチェン人は独自の文化を守るため、それからも幾度と抵抗を続けていきました。抵抗の歴史の中で1944年にスターリンによって行われた強制移住は忘れる事ができません。
これは、チェチェン人がナチス・ドイツに協力したとして1944年2月の凍える寒さの中、一夜にしてカザフスタンの何もない所へ連れて行かれたのです。この移住で民族の40%、多くて60%が寒さと飢えで死亡したと言われています。この出来事は、すべてのチェチェン人にとって民族的トラウマとなっているのではないでしょうか。フルシチョフの時代に帰郷を許されましたが、戻っても住んでいた家には新しく移住してきたロシア人が暮らしており、ゼロからのスタートを余儀なくされました。チェチェンソ連解体の1991年に独立を宣言、1994年12月にはロシア連邦軍が投入され、第1次チェチェン戦争、1999年からは第2次チェチェン戦争が勃発、20万人〜25万人が犠牲になっています。1次と2次が違う点は、1次の頃はまだジャーナリストや国際団体などが入れ、外の目がありました。2次の時、特にプーチン政権になってからは入国が困難となり、密室状態での戦争となりました。現在は大きな戦闘はないものの、散発的な戦闘や、親ロシア政権による拉致が続き、人々は恐怖政治の下で怯えて暮らしています。そんなチェチェンにおいて、バイエフ医師は活動されてきたのです。

18:55 バイエフ紹介
 岡田一男:まず、バイエフ氏の来日にあたって協力していただいた団体、個人に対して感謝申し上げます。バイエフ氏は1963年4月4日にグローズヌイ郊外で生まれ、10代の頃、「柔道の天才」と呼ばれる映画の影響を受けて柔道家を目指されました。その後はチェチェン人として初めて名門医科大学に入学、外科、特に形成外科分野において優秀な医師として活躍されていましたが、戦争後帰国し、その後アメリカへ亡命されました。

19:00 トーク [医師の信念はどこから来ているのか]
 林:バイエフ氏の著書である「誓い」を読んで感動したために日本へ呼ぶ事にしました。著書ではバイエフ氏自身だけでなく、チェチェン民族の心の中までが見て取れる本であります。私も現地へは何度も訪れた事があり、チェチェン人家族のもてなしが凄かった事を印象に覚えています。チェチェン人は、チェチェン人を虐殺しているロシア兵さえも宿泊させ、食事を与え、客としてもてなします。このような外から来た人を受け入れるチェチェン社会というもの、なぜ医師として敵味方関係なく医療を続けられたのか、その信念について是非お聞きしたい。

 バイエフ:私は、子どもへのしつけから来ているのではないかと思います。チェチェンではどの父親も楽に生きるようにではなく、困難を乗り越えられるような強さを身につける力を与えるしつけをします。私たちチェチェン人の歴史を見れば当然でもあります。また、しつけによって客を大切にするように学びました。自分の感情をコントロールできるようになりなさいと。私はこのようなしつけを子どもの頃から受けてきたので、数々の困難な状況を乗り越えてこられたのです。客は敵味方関係なく、家へ一歩入れば誰でも客としてあらゆるもてなしをする、それがチェチェン人の特徴だと思います。私の強さは父からのしつけによって養われたものだと思います。例えば、助けを求めている人には助けの手を差し伸べよ、また他人の悲しみや苦しみに無関心であってはならないなど。私自身はしつけの他に柔道精神がありました。私はかつて柔道とサンボの選抜チームの一員でした。そこで培ったものが戦争を通じて支えとなりました。自分の家の周りが砲撃された時、感情をコントロールできたのはその忍耐力があったからです。

19:10
 林:先の強制移住について両親からどのように伝えられていますか?

 バイエフ:ユダヤ人のホロコーストと同じような位置づけができると思います。あの強制移住によって目的地であるカザフスタンに着くまでに人口の半数が死にました。1944年2月4日の事でした。家畜用の列車に詰み込まれ、座る所のないほどの狭さの中で遠いカザフスタンという異郷の地へ運ばれました。寒さと飢えによってたくさんの人が死んでいきました。列車はよく橋の手前で停まり、「遺体はないか?」と訊きました。川へ遺体を捨てるためです。目的地に着く頃には、列車は半分ほどになっていました。カザフスタンに着くと、私たちはバラバラに放り出され、何もない不毛の地での新たな生活を余儀なくされました。病気になって病院へ行っても、チェチェン人という理由だけで治療を断られました。私の父はヨーロッパ戦線からはるばる強制移住させられました。戦争で得た称号も剥奪されました。一人だけソ連の称号をもらえたチェチェン人がいましたが、彼はタタール人へと国籍を変えられてしまいました。フルシチョフの時代にようやく故郷へ戻れるようになりましたが、たとえ故郷へ戻っても昔の故郷はありませんでした。新しくロシア人が暮らしていたのです。私たちは新たな問題に直面しました。住む所や就職をどうするか、その不満をぶつける所はありませんでした。

19:20
 林:2004年7月に日本チェチェン空手大会がありましたね。モスクワの親善試合ではチェチェン人は勝っていたのに負けの判定をされていましたよね。1991年の独立宣言、1994年のロシア軍侵攻の時はどう感じられましたか?

 バイエフ:私はソ連選抜チームに入っていたので、ソ連チェチェン人に対する扱いは肌で感じていました。ペレストロイカまではどんなに国内で優勝を収めても国外の選手権へは出してもらえませんでした。それが変わったのはゴルバチョフ政権になってからです。チェチェン人が認められるにはロシア人の何倍も優れていなければなりませんでした。なぜなら審判は常に私たちを差別的に見ていたからです。私は1991年に独立宣言をした頃、モスクワで仕事をしていましたが、モスクワ中央政府チェチェン政府の政治的緊迫を知って開戦前に帰国しました。開戦したのは1994年12月11日の事でした。10月には既に爆撃機が何機もグローズヌイ上空を飛んでいましたが、ロシア政府はロシアの爆撃機だと認めようとしなかったのです。その爆撃機が墜落してようやく認めました。爆撃は私の病院にも落ちたので、故郷のアル・ハンカラへ戻って小さな診療所を始めました。しかしそこにも爆弾が落ちてきたので、私たちは周りと話し、他のメンバーは遠くへ逃げる事に、私は自宅で診療を続ける事にしました。それでも爆撃から逃れる事はできず、とうとう自宅にロケット弾が落ち、崩壊してしまいました。そのため診療は車で移動しながら続ける事にしたのです。第2次チェチェン戦争の時も私は、故郷のアル・ハンカラで診療をしていました。2次は1次と違って、爆撃の規模も大きく、何よりロシア人とチェチェン人の同情心というものがなくなってしまっていました。2次では多くの医師、看護士が犠牲になり、国内の医師は私一人になってしまいました。

19:40
 林:バイエフさん自身、手術中に爆撃を受けて負傷しながら手術したようですが?あとなぜ故郷を捨て、アメリカへ渡ったのでしょうか?

 バイエフ:1次の戦争で多くの医師や看護士が犠牲になりました。確かに私は手術中に爆撃を受け、負傷した事があります。けれどその時は自分が負傷した事に気づかなかったのです。周りから血が流れていると言われても、患者さんの血だと答えていたのを覚えています。しかしズボンの下から血が流れているのを見て、初めて自分が負傷している事に気づきました。そして意識を失ったのです。私がアメリカへ亡命したのはある事がきっかけでした。2000年の始め、亡命しようとした4000人の兵士が地雷原に入ってしまい、多数の兵士が病院に担ぎ込まれてきました。その中にあの有名なシャミール・バサーエフがいたのです。私は彼を治療した事によって、ロシア当局から追われる身となりました。病院は破壊され、ロシア軍には追われ、私にはここに留まる理由がなくなりました。村の長老たちに説得され、出国する事を決意し、まずイングーシ共和国へ行きました。そこで、ヒューマン・ライツ・ウォッチアムネスティなどの団体に助けられ、手のリハビリを兼ねてアメリカへ亡命する事に決めたのです。

20:00
映像:チェチェンにはおもちゃに似せた地雷が学校や遊び場の近くにたくさん置かれています。子どもたちはおもちゃだと思って地雷に触れて犠牲になるのです。この戦争によって多くの子どもが障害を抱えるようになりました。最近では先天性の障害も見られています。これは深刻な問題です。

20:30 質疑応答
 Q:ロシア兵を救ったと聞きましたが、敵として憎しみはなかったのですか?
 A:もちろんロシア兵を救った事は何度もあります。しかし私には善人、悪人の区別も、チェチェン人、ロシア人の区別もありませんでした。ただ一人の患者としてみていたのです。でなければ医師とは言えません。
 Q:戦時医療と通常医療はどこが違うのですか?
 A:本来私は形成外科医でした。しかし戦争で専門を変える事を余儀なくされ、患者さんの手足を切断する事は私の専門から言ってとても辛いものでした。
 Q:人類が共存していくためのヒントはお持ちですか?
 A:そうですね、私が思うに今の世界は何かが狂ってしまっています。誰が強国なのかを競っているように思えます。まずは戦争がなくならない限り、犠牲者や負傷者は増える一方です。犠牲者と負傷者が出る戦争に正義なんてないと思います。
 Q:日本各地を回ってどう思われましたか?
 A:私は日本の多くの街を訪れました。そしてどんな国なのかを考えました。私が思うに日本はアメリカともヨーロッパとも違う国です。最も強い印象を受けたのは広島と長崎でした。広島と長崎の悲劇は、街が廃墟と化した点、犠牲者の多くが女性や子供といった一般市民であるという点と後遺症が世代を超えて伝わるという点において、私たちチェチェンの悲劇と似ていると思いました。私は日本国憲法第9条を学び、とても大切なものだと感じました。これは世界の平和の保障となる条項です。平和に暮らしていける国には前進の未来があると思います。私が深刻に思ったのは、日本での子供の自殺です。彼らは両親からの心のケアとサポートが不足しているのだと思います。

20:45
 林:これからの日本をどのようにしていったらいいのかを肌で感じた集会になったと思います。これからもチェチェンの事に関心を持ち続けてもらいたいと願っております。

 バイエフ:皆さんありがとうございました。特に申し上げたいのは、他人の悲しみに無関心でいてほしくない事です。チェチェンの事も世界のどこか遠くの出来事のように考えないで下さい。日本が平和でありますように。

(文責:バイナフ自由通信社)