『ロシアン・ダイアリー』書評
「私にはすべてが見えている――『楽観的な予測』を喜ぶことができる人がいるなら、そうすればいい。そのほうが楽だから。でもそれは自分の孫への死刑宣告になる」
本書『ロシアン・ダイアリー』を読んでなお、私たちは未来の世代への死刑宣告を下すことができるだろうか?「楽観的な予測」に従えば、答えはNOということになるだろう。けれども、アンナ・ポリトコフスカヤのペンは、そうした安易な読み方を私たちに許さない。
ポリトコフスカヤは一般にプーチン政権に対する苛烈な批判者として知られている。けれども、『チェチェンやめられない戦争』、『プーチニズム』、『ロシアン・ダイアリー』を読んで最初に気づかされるのは、彼女が外なる不正義と内なる無関心を同時に告発しているということだ。彼女は、プーチン政権下での「ロシア議会民主制の死」や法執行機関のすさまじい腐敗、それらの象徴である「チェチェンのパレスチナ化」を糾弾する。そして、それゆえに、ロシアのファシズム化を支える民主派や人権運動家、欧米諸国の欺瞞と、ロシア国民の底なしの無関心をも容赦なく暴き出す。
例えば、不正が横行し、「軍部が完璧に権力を掌握しているチェチェンでは、有権者数を一割上回る人が投票した」2003年のロシア下院選の結果について、ポリトコフスカヤはこう述べる。
「私たちはプーチンの時代にロシア議会民主制の危機を経験しているのだろうか。いや、私たちが経験しているのは、その死だ・・・第一に・・・政府の立法と行政機関が癒着し、ソビエト体制の焼き直しをもたらした。その結果、下院は単なるお飾りで、プーチンの決定を追認するだけの機関に成り下がってしまった。第二に、これがロシア議会民主制の死の真の理由なのだが、ロシア国民が選挙結果を容認してしまった。街頭デモも民衆の反対運動も市民の不服従もなかった。有権者は寝そべったまま・・・民主主義なしで生きていくことに同意した」
チェチェン戦争に関するこんな記述もある。
「戦争は行き詰まっている。私たちはこれを終わらせたいのか。それとも、どちらでもいいのだろうか。大統領選の運動期間をとおして、特筆すべきチェチェン戦争反対デモは一度もなかった。わが国の国民の素晴らしいまでの信じ難い辛抱強さが『プーチン』という名の悪夢を支えている。ほかに説明がつかない」
ポリトコフスカヤのペンは真実をあまりに鋭く射抜くため、プーチンやロシア国民の多くは―そしておそらく私たちも―そのペンの強さに耐えられなかった。だから彼女は殺された。ポリトコフスカヤは確かにプーチンを批判していたが、私たちの誰もが「『プーチン』という名の悪夢」の一部だった。
すべてを見抜く冷徹な知性と、最も弱い立場の人々に寄り添う優しさが、一人の人間の中に共存していたことは、果たして幸福なことだったのだろうか?そう考えること自体、ジャーナリストとしてのポリトコフスカヤにとっては、冒涜でしかないのかもしれないけれど。
本書を読んで、未来の世代への死刑宣告が準備されているのがロシアだけだと考えるなら、それは間違いだと思う。そう、「『楽観的な予測』を喜ぶことができる人がいるなら、そうすればいい。そのほうが楽だから。でもそれは・・・」
(邦枝律)