チェチェンの記憶――過去・現在・未来


 記憶――、といってももちろん、チェチェン戦争自体が過去のものになったと言いたいわけではない。それどころか、未だ現在進行形で続くこの戦争には次々と新たな「日付」が書き加えられていく。

 昔ある知人が、(沖縄の米軍ヘリ墜落事件について)「事件は忘れられても1年たつと「あれから1年」といってまたマスコミに注目される」と言った。そして、「2年後はあまり注目されないで5年後ぐらいに再び注目され、その次は10年後…」というように。その通りかもしれない。1年後にまたニュースでとりあげるのはいい。だが結局その1年後の1日だけで忘れ、「キリのいい」年数を経たときしか顧みられない、そういう気づきそうで気づきにくかった事実をシンプルに語った言葉だ。
 アンナ・ポリトコフスカヤの命日であり(そしてプーチンの誕生日でもある)10月7日には、すでに「チェチェン総合情報」でも紹介しているようにマスコミ各社が一周忌の集会や犯人捜査状況などを各々報道した。来年はどうなるのだろうかとすでに先のことを考えてしまう。

 2004年の9月1日から9月3日にかけておこったベスラン学校占拠事件。私は今年の9月に果たして事件はとりあげられるのか報道を注視していた。しかし私の知る限り、当該期間にベスランを「回顧した」報道はAFPの短信以外日本語で見る/読むことはできなかった(もし私の見落としがあればご教示いただきたい)。
http://www.afpbb.com/article/war-unrest/2277016/2074492

 当該期間にベスラン関係報道がなかったと述べたが、その少し後の9月16日には日経新聞で「ロシア学校占拠事件から3年――「真相を」遺族の思いなお」という記事が掲載されていた。現地取材をした古川英治記者によって事件から3年後の遺族の姿をリポートしたものだが、彼/彼女らの「戦い」を非常によく伝えてくれているので以下に抜粋したい。

 ロシア南部の北オセチア共和国ベスランの学校占拠事件から9月で3年が過ぎた。300人を超える犠牲者を出した同国最悪のテロの“真相”を求め、遺族が政府との対決姿勢を強めている。特殊部隊突入時の目撃証言と公式な説明が食い違い、「政権に都合の悪い情報が隠されているのでは」との疑問が消えないためだ。風化の波が押し寄せる中、遺族にとってやりきれない日々が続く。

 人質が監禁された現場に部隊が突入し、流血の惨事に終わって事件について、遺族の多くは「政府は人命を二の次にして作戦を展開した」と疑っている。政府は人質解放まで戦車は使わなかったとしているが、住民らは「早い段階で攻撃するのを見た」と証言する。

[事件の遺族でつくるグループ「ベスランの声」の代表]エラさんは「政府は人質の命を最優先に考えて対応すると信じていた。今はそんな自分を責めている」と唇をかむ。

別の遺族団体に匿名で7月に届いたビデオには「爆発は体育館の中では起きていない」とする現場調査した専門家の証言があったという。事実とすれば「武装集団が体育館に仕掛けた爆弾が暴発したため突入した」との政府声明と食い違う。しかし、究明に向けた活動への支援の輪は広がっていない。「政府がウソをついていることは明らか。でも政治に関与したくない」。人質となった娘二人が無事戻ったという男性は打ち明ける。「政府に刃向かうことによる“報復”を恐れ、沈黙する住民は少なくない」とエラさんはいう。
日本経済新聞、2007年9月16日、朝刊、34ページ)


 3年が経ち、現地でも少しずつ風化が進んでいる。もちろん学校を占拠した犯人グループの愚行こそ責められるべきものではあるが、それに対する政府の対応も同じように疑惑に満ちたものである。こうした事件後の経過をいつまでも追い続けることなしに歴史を書き加えることはできないし、「チェチェン人のテロによって多数の子どもたちが死んだ」という記憶やイメージを確定するにはまだ早すぎるのだ。

 もちろん、「日付」も「名前」もない死者たちが大勢いることを決して忘れてはならない。戦争で亡くなったほとんどの人には命日もなければ一周忌もなく、こうして回顧されることさえないのが現実である。しかし、「日付」も「名前」もない死は実際に存在している。

 日経新聞の記事の中で、10歳だった息子を亡くしたエミリアさんは次のように語っている。「万一、次の悲劇が起きたとき、ベスランの母親はなぜ真実を突き止めなかったのかと問われる。だから最後まであきらめない」と。私たちには「なぜ放っておくのか」という他者からの声が投げかけられ続けている。(藤沢和泉)

記者殺害1年で追悼集会 ロシア [朝日新聞 10/8]
ロシアでプーチン政権を厳しく批判してきた女性ジャーナリストのアンナ・ポリトコフスカヤさんがモスクワ市内の自宅アパートで射殺されて7日で1周年。同市内で追悼集会が開かれた。
人権団体モスクワヘルシンキグループのアレクセーエワ代表はロイター通信に「アンナは存命中から報道の自由だけでなく自由そのものを象徴する存在だった」と述べ、ロシアで自由が失われつつあることを警告した。この日モスクワ市内では、冷たい雨が降る中、プーチン政権の初代首相から野党勢力に転じたカシヤノフ元首相らの呼びかけで開かれた追悼集会に約1千人が参加。ポリトコフスカヤさんの写真や「真実の代償は死だった」などのプラカードを掲げた。 (モスクワ)