「言論を支配せよ〜“プーチン帝国”とメディア〜 」についての感想集

何人かの方々が、番組についての感想をくださったので紹介します。
番組サイト: http://www.nhk.or.jp/special/onair/080512.html

告発調でなく、素材をつなげて見せたドキュメンタリー(T.Kさん)

忙しいときだったので録画してみました。 いつもロシア報道ではBBCやフランス、ドイツとヨーロッパの取材の鋭さにくらべて日本のはなぜ物足りないのかと思っていましたが今回のは それに見劣りしない力のこもった物でした。 ロシア側に押されておらず、かと言って勝手な正義感というのか「メディア」がつぶされる被害者意識的なセンチメンタルなコメントはなく、もっと押さえている分現実的ですごかった。チェチェンで人々が苦しんだことが すべて強盗のごときチェチェンのテロリストのせいにされ、それに乗って現政権が存続し、安定を誇っていることもきちんとしかも告発調でなく素材をつなげて書いていること。ことに反権力の記事がどのように加工されていくのか そのぎりぎりのせめぎ合い、そしてつぶされるかもしれない最後のメッセージがこめられていることが貴重であり、また番組製作者の共感と主体的な立場を感じさせます。

明日の日本の予感(H.M.さん・大分県)

NHKスペシャルの再放送を観ることができました。非倫理的な権力の実像を見るにつけ、これは人間社会の、世界中どこであれ発現する可能性を示していると思わざるを得ませんでした。危険な独裁者を渇仰してやまぬ大衆の、無惨とも言える自滅的な意識の流れ。これが、ひたすら己の生き延びだけを求める人間一般の姿なのでしょうか。よその国の問題ではない、私たち日本社会の明日をも予感させられるものでした。

 余談ですが、少々不審に思ったことで、この番組の録画を試みていたところ、放送が終わって、テープをチェックしてみたら、全然録画できていませんでした。録画装置の扱いは日頃手慣れているので、自分の操作ミスとは信じられないでいます。放送技術のことはよく知りませんが、内容が内容だけに、録画ができないような特殊な映像処理でもしてあったのか、とあられもない憶測が湧いてしまいました(苦笑)。

こんなコトバを聞くのは初めてだよ(館野公一さん・シンガーソングライター)

 夕べ、晩ご飯を作りながらこの番組を見ていたが、途中からは手を止めてテレビの前に座り込んでしまった。

 ウラジミール・プーチンは、ロシア上り坂経済の8年間、大統領を務めたが、その間、凄まじい言論弾圧を行ってきた。新聞・テレビなどのメディアに対して徹底した支配を行い、逆らうものはつぶしてきた。
 番組の冒頭、テレビ番組のスタジオで、カメラの後ろから拍手を送る人物が写るが、彼は政府の補佐官で、プーチン礼讃の発言が出るとスタジオで拍手をしているのだという。その異様な様子にぎょっとした。

 NYV(エヌ・テー・ベー)というテレビ局は、チェチェンについて徹底して平等な報道を行った。つまり大本営発表を行わず、戦渦に傷つき死んでいくチェチェンの市民の姿をきちんと報じたのだが、放送局のオーナーがほとんどでっち上げ同然の罪で逮捕され、株の放出を交換条件に釈放、その結果国営企業が株を買占め、経営陣は入れ替えられた。その後も、記者たちは毎日検察庁に呼び出されて、長時間の取調べに取材ができなくなった。

 プーチンはインタビューに答えて「報道の自由というものは、放送局が健全な経済状態の時に許されるのだ」と言った。ぼくは報道の自由についてこんなコトバは聞くのは初めてだよ。

日本人がおとなしくなっていったプロセス(Tさん)

一昨年殺された ポリトコフスカヤの「ロシアン・ダイアリー」を読むと日本で反体制というものがおとなしくなっていったプロセスに重なります。 日本でロシアほど あからさまな 検閲はややっていませんが テレビ映像というものが作られた物だということはあまり意識されておらず、盛り上げるために拍手を指揮しているスタッフがいることはどこでも同じだなと思って この番組を見ました。 従軍慰安婦問題の番組がつくられたときの当時の政権側からの見えない圧力のことは既に記憶から 消えつつありますが こういうことはどこでもやってきていて、あからさまにはやらなくなったのは その必要がないほど 国民が無抵抗、無関心になった暁だとも思えます。「やっぱりロシアは怖い」というだけでなく、放送が自主規制していく初期のプロセスを 思い出してみるよすがに是非タイマー録画などでご覧ください。 モスクワ大学ジャーナリスト学部での討論がでてきますが、ベスラン事件のとき子供を数人救いだし、事件解決に協力を惜しまなかったのに逆にまったく無視された 元イングーシ大統領アウシェフ氏に似た口ひげのひともでています。