「言論を支配せよ〜“プーチン帝国”とメディア〜 」をみて思うこと

(大富亮/チェチェンニュース)

 NHKスペシャルで放送された「言論を支配せよ〜“プーチン帝国”とメディア〜 」を見た。思い切ったタイトルに驚きながら。BSでは海外のドキュメンタリーも含めて、かなりはっきりとした主張のこめられた番組が放送されているのを見ることがあるが、地上波でこれだけの番組を作ったスタッフの方々に拍手したい。きっとすさまじい困難を乗り越えて、この放送があったと思うからだ。

 「権力から自由なテレビ局が存在するのは不自然だし、間違っている」と、あたりまえのような表情で口にするテレビ局社長。「権力は強くなければなりません」と言って、じっとテレビの中のプーチンの姿に見入る、片田舎の初老の男性とその家族。

 「テレビを支配するものは民衆の精神を支配すると言ってもいい」ロシア人のジャーナリスト、アンドレイ・バビツキーが日本に来た時にそう語っていたのを思い出す。

 語られていることは、さほど広い範囲のことではない。しかし「プーチン帝国」と呼ばれるものを読み解く上で、最も重要なポイントが二つ明示されている。それは、メディア支配と、チェチェン戦争だ。
 第一次チェチェン戦争では政権を強く批判していたNTV(独立テレビ)の二人の記者がいる。一人はいま、モスクワ大学でジャーナリズムの教鞭をとり、学生とともにチェチェンと近隣の国々から人権活動家や政治家を招いて大学構内で討論会を開き、その様子をテレビ局に取材させる。

 もう一人は、政府にそれ自体押収されてしまったNTVに残って報道局長に出世し、プーチン政権を礼賛する番組を制作している。「政権批判の時代は終わったわ」とうそぶいて。かつてこの記者は、「苦しむのはきまって一番弱い人たちなんです」と訴えていたのに!

 結局、大学で撮影された討論会は、どこのテレビ局でも報道されなかったばかりか、主催した元記者は教職を失いそうになる。彼女が唇を噛み、緊張した面持ちで討論会の進行を見守る横顔を写したシーンが、ロシアでまじめに報道に携わろうとする人々すべてに共通する表情のように思える、巧みなモンタージュだった。

 きっとNHKスペシャルの時間帯なら、はじめてモスクワでのメディア支配の現実や、チェチェン戦争の様子を知った人も多いはずだ。そういう人にはびっくりするような内容だけれども、ずっとロシアの問題を追っていた人からすればとても納得のいく出来で、文句の挟みようもない。画期的な番組だと思う。

 暗殺されたアンナ・ポリトコフスカヤの所属していた「ノーヴァヤ・ガゼータ」の最近の様子も描かれている。ムラートフ編集長は、「記者が殺される懸念があり、政権に妥協も出来ない以上、新聞は廃刊にすべきだ」とまで言う。私はとっさに、そんなこと言わずに続けてほしいと思う。小新聞社とはいえ、50万部の発行数は貴重だ。

 つい最近、クレムリンの赤い絨毯の上を、どこか頼りない新大統領が歩いて壇上に上がり、そこで待っていた前の大統領に握手を求めた。双頭の鷲の紋章の載った赤と青の国旗が、誇らしげに画面を覆い尽くすけれども、この番組を見た後の私たちは、どれも悪いニュースの前触れのように感じてしまう。

 戦争が解決されず、ただ国威発揚の様子が放送され、その裏側では従わないメディアが次々と消されていくのを知ると、不吉な予感はどうしても打ち消せないものがある。番組のナレーションでも強調されていたことだが、「ロシアは、プーチン時代に入って自信を回復した」という。それは資源の高騰とチェチェン戦争の見かけ上の勝利によるものだが、メディアはまさに「自信」を国民に植え付け続けているのだと思う。そのアイコンがプーチンだ。

 「強い国」「美しい国」「普通の国」「単一民族国家」と、スローガンはいろいろあっても、一つの国や国家、民族を強調するかぎり、かならずその国の内外に犠牲者が生まれる。民族や言語を国境で区切れるはずはないし、区切ってしまえばその内部では支配民族と辺境の人々との間に、目をそらしたくなるような一方的なリンチが始まる。チェチェンがそうであり、琉球処分アイヌへの弾圧がそうであったように。

 「言論を支配せよ〜“プーチン帝国”とメディア〜 」という番組は、ロシアの「自信回復」と、それに並行する試練として続いてきたチェチェン戦争、その二つの現象を伝え、時には批判しながらも、現時点で政府の支配に甘んじるメディアの姿を描きだした。「プーチン帝国」が帝国に成長していく中で、混乱したロシアという国家を統治するために選んだ処方箋はつまり、民族主義だったということだろうか。

 けれども今私たちが目にしているような民族主義は、旧ユーゴ内戦の多くの局面でそうだったように、人々の不安と社会の混乱を一時的に収束して為政者に権力を集中させるが、結局内部・外部に敵を作り出すことでしか維持できない。その敵は常にメディアの上で指さされる。

 私たちがこの状況の傍観者にならないためには、ロシアの市民運動やメディアで苦労している人々に、何らかの支援をすることだと思う。支援というのはおこがましいかもしれない。すでに私たちは多くのものを、その人々から受け取っているはずなのだから。