スタニスラフ・マルケーロフ:自分が守っているのはロシアの法だ。ブダーノフを正当化するなら、チェチェンを独立国家と認めることになる。

マルケーロフ弁護士の未掲載インタビュー

スタニスラフ・マルケーロフがチェチェンから2002年の6月始めに戻ってきたときにとったインタビューを初めて掲載する。 そのときスタース(スタニスラフの愛称)はブダーノフ陸軍大佐を18歳のエリザ・クンガーエワという娘の誘拐、強姦、殺害の罪で訴えたチェチェン人、クンガーエフ家の弁護士になった。 このインタビューは6年半前にとったスタニスラフ・マルケーロフのインタビューで初めて掲載される。

 「メモリアル」「グラッジダンスコエ・サジェイストヴィエ」他の人権擁護団体の招きで、スタニスラフ・マルケーロフ弁護士はブダーノフ陸軍大佐の事件を調査する裁判に被害者側の弁護士として関わることになった。2002年の5月半ばのことである。

 その当時クンガーエフ家の弁護士ハムザーエフが病気になり、多くの人たちはマルケーロフは臨時にハムザーエフの代理をするだけなのだと思っていたが、ハムザーエフを助けるために本気で来たと分かると、様々な質問を浴びせかけた。彼の民族出自は?チェチェンディアスポラにやとわれたのだろうか?
 裁判所は当時、精神鑑定の結果を最終のものとみていた、これはロシアのセルプホフ記念社会・司法精神病院の国立科学センターと、二つの初期鑑定のデータによってモスクワで出された鑑定だった。

 事件の資料を調べたマルケーロフは、北コーカサス軍管区裁判所の取調べ機関に対して厳しい見解を持った。それが偏見にとらわれ、被害者側の権利を抑圧しており、その結果ロシアの法に違反していると非難したのである。マルケーロフにとって、どちらの鑑定結果も信頼するに足らず、それを根拠にして出された裁判所の結論より他の真実を探らなければならなくなった。

 そこで彼は中立的な精神科、法律協会からの申請書や、上記の鑑定書の信頼性を覆し、捜査段階での違法行為についての異議申し立ての書類の束をロストフ・ナ・ドヌー(ロシア南部の要衝、裁判所があった?)に次々に持ち込んだ。しかし、それは無視された。 有名な大転換(検事の交代)が起きる直前に、裁判所はいいなりにならないマルケーロフとハムザーエフの両弁護士に対して、裁判長の指示を聞かなかったとして法廷からの退場を申し渡した。しかし周知のごとく、ここで事態は一転して、より上位の機関によって申し立てが聞き受け入れられたのだった。

ーー検事の交代という、この驚くべき転換はどうして起こったんでしょうか?

 この裁判では、弁護士が原告の役をするはめになった。と言うのも、ナザーロフ検事はブダーノフ側の4人目の弁護士で、彼は一貫してブダーノフの立場を支持していた。はじめのうち、この事件は、あの戦争の続きなのだと多くの者が受け止めていた。つまりロシア側連邦の将校とその弁護士たち、もう一方はチェチェン人、クンガーフ家とその弁護士ハムザーエフ(彼は大変によく物事を理解している、経験豊かな弁護士だよ)だと。ところがロシア国籍の弁護士である私が被害者側についたとたん、状況が根本的に変貌した。

 その間私はこの事件は考えていたよりずっと深刻なものだと証明しようとしていた。 これは、大きな影響を及ぼす事件だと。我が国は判例法の国ではないが、この事件は今後、前例として大きな意味を持つものだろうと思った。というのもこの事件が、ロシアのまだ若い法体系の今後を決めてしまうような法的な基本的な問題を含んでいるからで、つまりロシア領では今後その規範となるのが法なのか、あるいは未開人のそれとなるのかが問題になってしまうんだ。

 たとえは報復というのは、ロシアでは罪をより重くすると見なされてきた。それなのにブダーノフは、常に自分の行動を正当化するために死んだ軍隊の仲間の報復ということを供述であげていた。ところがロシアの裁判所は、おかしなことにこのような動機付けを肯定的に評価したのだ。それならもっともだとね。

 もし、報復が殺人を正当化してしまうなら、我が国の法体系全体が未開国のそれになってしまう。むしろ報復はチェチェンの法規範だ。ブダーノフが正当化されるなら、次のような問題が出てくる。我が国でもチェチェン法で裁くようになるならもう誰が誰に対して勝利しているのかという疑問だ。

 ブダーノフを正当化したとたんに我々はチェチェンを独立国家と認めることになる。おそらく、このことをついに上層部も理解して、最後の瞬間になって検事が交代するなどという大転換が起きたのだろう。ナザロフの検事論告は(これ以上の無罪論告をきいたことはない)法律の違反という観点からあまりに珍妙なものだったので、上位の法保護機関にも耐え難くなったのではないかと私は思う。というのもあまりのひどさに彼らの名誉も、法体系そのものの名誉もあぶなくなってきたからだ。

ーーこの大転換の直前に、被害者側の弁護士たちは裁判に対する抗議のために双方の口頭弁論への参加を拒否するという意思表示をしましたね。それが事態の変化を招いたのでしょうか?

 そうだと思う。もちろんこれは危険なやりかただった、しかし我々が訴えていることを聞き届けさせる方法が他になかった。その前に、われわれがまだ全部の証人の尋問が終わっておらず、多くの申請が検討されてもいないと指摘しているのに、裁判所はまったく違法にも取り調べを停止して、口頭弁論をはじめると宣言した。

 その少し前に、事件にはロストフの弁護士チホミーロワが加わってきた、彼女はクンガーエフ家が招請したのだが、裁判所は彼女が事件の資料を調べることもできなくした。それで、口頭弁論の発表があったあとに、ご存じの事態になったのだーーこんなことはロシアの司法において初めてだったろうけれども、当事者の片方の弁護人が口頭弁論を拒否したのだ。

 口頭弁論というのは、双方の立場を明らかにする総括的なものだ。われわれがそこで発言すれば、我々に対して裁判所が犯した誤りを列挙するだけでも丸一日かけたって足りなくなる。我々の行動はショックを与えたが、それでも一方的な「口頭弁論」が行われた。その直後に検事が交代させられたのだ。

 ナザロフの代わりにミロヴァーノフが現れた、彼は前任者の立場をそのまま模倣せず、逆にまず宣言した「私は自分の見解というものを明らかにしたい」と。そのようなことはこの裁判で初めて聞いたことで、わたしにとっては明るいニュースではあった。裁判最終日、この事件のいきさつの全期間をつうじて初めてわたしの見解は、とうとう検事と一致したんだ。

ーー最近北コーカサス軍管区裁判所からあなたのことで地域間弁護士会にクレームが来ているそうですが、何を非難されているのですか?

 私が裁判所を道化芝居だと言って、その決定にしたがわないことだ。確かにわたしはそう呼んだ、しかしそれは法廷でではなく裁判の審理が終わった後でのことで、われわれが当然おこなっていいはずの申請を却下されたからだ。たとえば、事件の資料のなかにブダーノフの証人のなかに突然二人の情報源の名が出てきた。

 その一人、セムビエフというのはエリザを殺した直前に、エリザやクンガーエフ一家が狙撃兵の共謀者だとブダーノフに密告した者で、もう一人のヤフヤエフというのが、エリザとその母親が完全武装で山に入るところをとった写真をブダーノフに「見せた」とされる。

 裁判所はこれに関して次のように宣言した、これらの証人を尋問しなければならないが、彼らを見つけるのは不可能であると。そこで我々はセムビエフがロシアの刑務所にいるのを探し出した。というのも彼を見つけ出すのはあまりに簡単だったし、ヤフヤエフは自分の住所のところにいてずっと裁判所の呼び出しを待っていたのだ。

 私たちは裁判所に頼んだ。「この人たちを尋問してくれ、彼らはブダーノフの側について証言するはずだろう」しかし、裁判所はナザロフ検事と被告人の弁護士たちの全面的なサポートによってそれを拒否した。私が道化芝居だと言ったのは、そういうばかげた事態のあとのことだ。

ーーつまり、その証人たちはいんちきだったと?

 じつはブダーノフ側には、そんな彼らしか切り札がなかった。しかし我々がこの事実を明らかにし始めると、次々に法律の小咄みたいなことにぶつかった。クンガエフ家の人たちが逮捕されたことで、重要な意味をもつことになっている例の写真のことだ。
 そんな写真はどこにもなく、誰も一度もみたことがない。次に文書から明らかになったのだが、二人の証人はどちらも第一次チェチェン戦争で戦ったんだが、エリザはそのころまだ13歳、母親は重度の身体障害者で、ふつうチェチェンの女性たちの仕事となっている畑仕事もできない。13歳の「狙撃兵」と重度の身障者が完全武装で山にいるところを想像できるかい?
 ナザロフ検事ですら、こんな証言は「ふざけている」と認めた。セムビエフの情報のことだが、タンギー・チュ村はザレチナヤ通りとザレチヌイ横町が1,5キロほど離れている。事件当時、セムビエフはザレチナヤ通りの家を教えたのに、ブダーノフは酔って「狙撃兵を捕まえに」ザレチヌイ「横町」の方に出かけていった。

 情報源が教えた家は白くて、草が生い茂った中にあるはずが、クンガエフの家は赤い煉瓦で開けた場所にある。大佐が間違えて、手当たり次第の相手を捕まえたのだ。しかも最初の供述ではエリザは「狙撃兵の娘」だったが、その後の供述では彼女自身が狙撃兵ということになっている。こういうことのすべてが裁判で明らかにされなければならないのに、裁判所は「この事件の取り調べは十分で、これ以上明らかにする必要はない」と言うんだ。

ーーセルプスク精神研究所の鑑定をどう思いますか?

 まず最初の精神鑑定をしたのはノヴォチェルカスクの精神病院で、犯罪行為を犯したときブダーノフの意識はたしかに異状があったとされているが、それは単なる泥酔だった。周知のことだがブダーノフはエリザ殺害の日、自分の娘の誕生日を祝っていた。かれの最初の供述ではウオッカを2本飲んだとしており、次の供述では600グラム、それから400グラムへ変わっている。

 つまり、取り調べが進むに従ってブダーノフの酒量は減り、最後のセルプスク研究所鑑定ではすっかりシラフになっている。この鑑定は実に変わった結果をだしていて、それによれば「人間を誘拐する」「職権乱用をする」ような犯罪を行う時のブダーノフは「責任能力が限られている」のに、殺害の時には、完全に「責任能力のない、意識がもうろうとした状態」だったとなっている。しかも、鑑定によれば、この意識朦朧の状態は殺害の前にもあとにもない、その瞬間だけのものだったというんだ。それで彼には外来観察という強制治療が指定され、制限つきの軍務につくこともできるとされた。

 過去の悲惨な弾圧で有名なペチェルニコヴァ医師がこの鑑定委員会の指導をしていることに、最初から専門家や世論は憤慨した。彼女は多くの反体制派を「治療」に追いやった、そのなかには裁判の当時下院議員だったヴヤチェスラフ・イグルノフもいる。しかし裁判所はそのことに注意を向けようとしなかった。

 イグルノフは、ペチェルニコワのように問題のある人物が率いる委員会の決定に異議を申し立てた個人的な電報をだした。もちろん同じ様な電報は、ペチェルニコワ餌食になった他の多くの人たちも出した。それに対して下院の規律委員会に回ってきた手紙には「裁判に圧力を掛けている議員がいる」というものだった。当時わたしたちは 冗談を言ったものだ。「ブダーノフ事件でとうとう誰が悪いのかわかったぞ! 悪いのはイグルノフ議員とマルケロフ弁護士だ!」ってね。

 ともあれ、精神鑑定の結果にはロシア内外の有名な専門家たちが憤慨して、これとは違った所見を送りつけていた。もちろん裁判所はまったく無視したが、さっき言った事態の「大転換」の後に、突然「鑑定は確かにそれまでのものと矛盾し、不十分なものだ」として再鑑定を求めた。

 そのためにペテルブルグの第六精神病院とベフテレフ研究所が提案されたが、裁判所はすべてこれを退けてソルプスク研究所をえらんだ、もちろんそこは連携しているのだ。もっとも委員会にほかのメンバーも招請されたが、それはいわゆる「精神病院の将軍たち」で、ペチェルニコワよりもっと権威のある、科学アカデミー会員のモロゾフとか、おぞましいソ連時代にセルプスク研究所の幹部だった連中で、ペートル・グリゴレンコほか多くの反体制派を精神病者と鑑定した人物だ。

 というわけで、今後ももっとすごいことが起きる可能性もある。

 ーー「モスコーフスキー・コムソモーレツ」紙の記者がとった兵士エゴーロフの自供はどう思ういますか? つまり「自分がエリザの死体に強姦したと証言しろ」と検事たちに強制されたということは?

 記者たちが取ったエゴーロフのビデオが捜査に役立つことを望むばかりだよ。しかし、彼女が強姦されたのは生きているうちであることは、最初の司法鑑定の結果、つまり死体解剖の直後の鑑定結果から明らかだ。ブダーエフが処女性を犯した結果の血痕が写真でもはっきり見て取れる。解剖をした専門家はそれに必要な製剤がなかったとして組織学的分析は行わなかった。まあ、強姦の事実はあまりに明らかだったのでその分析は行われなかった。

 そのうえ次に行われた鑑定はこの第一次の結論を確認し、この女性は生きているうち、もしくは死亡してすぐに強姦されたのだとした。法的にはそれほど意味がなく、ブダーノフがエリザを強姦した事実は明らかだった。その後、モスクワの専門家が加わって司法医学鑑定が行われ、今度は、強姦はブダーノフでなくエゴロフが行った、詳しく言うと埋葬のときにスコップの先で死体を陵辱したと鑑定するのが「まったく正しい」ということになった。
 中立的な立場の専門家たちは、ーわたしは世界的レベルの医学博士や病理解剖学者で50年の経験のあるオイフ・A.Iなどに頼んだのだがーどうして「まったく正しい」などと言えるのか理解できなかった。遺骸を掘り出したわけでもなく、資料を調べただけなのだから! このような調査の評価でもっとも重視されるのは、解剖のときの病理解剖の鑑定なんだ。病理解剖をしたものは遺骸をみているんだから。しかし、わたしがロストフの裁判所に持って行った中立の鑑定を、裁判所は資料に加えることを拒否した。

ーー戦争によって人間の内面が、よい面も悪い面も表面にでてくるのは周知のことですよね。ある者にとって戦争に加わることはは自己犠牲や英雄行為でも、ある者にとってはぼろもうけのチェンスであったり、処罰の心配のない殺人のチャンスだったりします。ブダーノフにとってはどちらでしょう? 戦争を最初から利用しようとした? それとも戦争によってこういう現象が生まれたんでしょうか?

 戦争が彼の悪いところを拡大してしまったんだろうね。戦争にはおおくの犯罪がともなうけれど、ブダーノフが犯したのは無法の極限で、ロシアの名誉を損なうものだった。こんなことがあったら、チェチェンとの関係正常化の可能性にだって響く。

 こんなことがあった。2000年の3月26日、クンガーエワの殺害の直前にタンギー・チュ村の村人たちーーこれはもっとも連邦軍に対して従順だったーーがロシアの大統領選挙に行くと、ブダーノフはこう叫んだ。「おまえらをコムソモリスコエ村のような目にあわせてやる!」と。

 これは村長がロシア兵士の略奪行為をやめさせてくれとブダーノフに頼んだときに、村長を人々の面前でなぐりつけながら言ってのけたんだ。それで、当時刑事事件として扱われていた暴行事件が沙汰止みになった。双方が「和解」したということだった。村長にほんとに和解したのかと聞いたところ「捜査官がそう書いてくれと頼んだんだ、わたしはまだあの村で生きていかなければならないから、怖かったんだ」と答えた。

 その直後に平和な村が突然なんの理由もなく白昼砲撃され、クンガーエワが連れ去られ、殺害された。チェチェンの人々に対してこれだけ反ロシア感を強めさせるプロパガンダはハッターブもバサーエフ(それぞれ戦死したチェチェンの野戦司令官)も思いつかないだろう。

 それでもクンガーエフ一家はロシアの裁判所にこれを訴えたものだから、村中の人にそのことを笑われたという。しかし、ブダーノフがチェチェンの少女を殺した動機としてあげていることーー軍の仲間がエリザに殺されたーーが本当だったとしたら、自分でリンチする権利などなく、FSBや民警が手近にいるのだから、そこに報告すべきだった。彼は兵士として戦うのが任務で、裁判所じゃない。訴えるべき機関がちゃんと働くかって? それはまた別の問題だ。

 この事件に関わる事で、私はロシアの司法が本当に有効に機能しているかどうかという、実験をしているんだ。

インタビュアー:イリーナ・オジョールナヤ記者
http://www.novayagazeta.ru/data/2009/004/38.html
(TK訳)