2006年11月18日 ハッサン・バイエフ横浜講演会

(場所:あーすぷらざ 1階会議室)


●発表
ハッサン・バイエフ(チェチェン人外科医・柔道家


チェチェンとは

まず、チェチェンそのものについてご紹介させていただきたいと思います。チェチェンカスピ海黒海の間に挟まれている小さな国で、周囲一帯をロシアに囲まれています。ロシア以外では唯一南の国境をグルジアと接しています。


チェチェン人は少数民族といってよいと思います。チェチェンでは、戦争前に約100万人だった人口のうち、12〜13年の戦争によって、25%が戦死しています。つまり25万人の民間人が死亡したわけです。この25万人の中には4万人の子どもも含まれます。

チェチェン人は古来からのしきたりを守って生きてきた民族で、言葉もチェチェン語を話します。ロシア人とは文化も食事も、伝統もすべて異なっています。チェチェンには北コーカサスでもっとも美しいといわれていた街や建築物がいくつもありました。特に首都グローズヌイは緑が多く美しい噴水や公園がいくつもありました。また、工業が発達しており、特に石油関連の工場が発達していました。

しかし、12年の戦争によって、ほぼすべてのインフラが破壊されました。チェチェン国内の状況を見るのは、たいへんおぞましいものです。高層ビルは一つも残っていないので、グローズヌイでは遠くの建物まですっかり見渡せてしまいます。また、国民の精神的な状態も悲惨です。すべてのチェチェン人が、家族の2、3人もしくは全員を失っています。チェチェンの孤児の数は2万6000人と言われています。


チェチェン戦争の影響

戦争自体も悲惨なのですが、その影響はさらに恐ろしいものです。それは、広島や長崎で、原子爆弾が落とされてから数十年を経た今なおその影響で亡くなっている人がいることを考えていただいてもおわかりになるかと思います。チェチェンでは数千の単位で手足を失った人々がいます。結核が蔓延していますし、癌にかかる人も増えています。血液関係の病気も増えていますし、内臓の一部が欠落しているなど、先天的な奇形を持って生まれる子どもも増えています。この戦争による影響は、何世代という長い時間をかけなければ決して回復しないものです。

私自身は、チェチェンの戦争を6年間見てきたわけで、それは一番大変な時期でした。特に第二次チェチェン戦争は、残虐性において、第一次の戦争よりもはるかにひどいものでした。というのは、第二次チェチェン戦争では、ロシアが国際機関をチェチェンに入れさせないようにするなどあらゆる対策を取ったからです。

第一次の戦争のときには、アムネスティ国境なき医師団ヒューマン・ライツ・ウォッチ、国際赤十字社などの国際機関がチェチェンに入っていましたので、チェチェン人はロシアによる戦争犯罪をどこに訴えればよいかという頼るすべがありました。ところが、第二次の戦争では、ジャーナリストやこうした国際機関がチェチェンから締め出されてしまいました。ロシアが戦争の証言者を必要としなかったからです。

ロシアはチェチェン人に対して身分証明書の検査をするのですが、このときに何の罪もない若者が拉致されたり拷問されたりします。私たちはそれに対して何もできません。私たちに防御のすべがないので、ロシア軍は残虐の限りをつくすことができました。人間の命は、ロシア軍にとって一銭の価値もないような、そんな軽いものでした。彼らは、人々を射殺するときにも、まったく何も感じていないようでした。

たとえば、私自身もこうした身分証明書の検査をされたことがあります。あるロシアの傭兵には、「お前はなんでそんなに真面目そうな顔をしているんだ?」と言いがかりをつけられました。そこで笑おうとすると、「なぜ笑っていられるんだ?お前はそんなに楽な環境にいるのか?」と言われるわけですね。まったくチェチェン人を挑発するための言いがかりなのですが、この挑発に乗せられてしまうと、射殺されたり暴行を受けたりするわけです。

ロシア軍は、わざわざチェチェン人の男性を冒涜するために、チェチェンの伝統を研究し尽くしていました。そして、両親や姉妹の前でいろいろなことをするわけです。それはチェチェンの男性にとっては、たいへん屈辱的なものでした。

私がグローズヌイの病院で働いていたときには、毎日20〜30人の負傷者が運び込まれてきました。負傷者はチェチェン人だけでなく、ロシア人やグルジア人、アルメニア人、アゼルバイジャン人など、多くの民族の人々がいました。ロシア軍の爆撃は、チェチェン人を狙っているわけではなく、まったく無差別なものだったからです。

6年間の戦争の中で、私は多くのおぞましい光景を目撃せざるをえませんでした。丸一日人々の手足を切断し続けたこともあります。もっともおぞましかったのは、子どもたちの手足がもげていたり、胴体が裂けていたりする光景でした。あまりに負傷者が大量だったために、病院ではわずか2ヶ月で医薬品が尽きてしまいました。

戦争の中では、病院でさえもつねに銃撃の対象でした。私たちは電気や暖房、お湯のない状態で治療を続けていました。薬品や鎮痛剤も底をつき、傷口の縫合には家庭用の糸を、消毒液には食塩水を、麻酔薬には普通の鎮痛剤―1%のレドコリン―を用いていました。

私は、戦争中には、人間の体が普段と違う反応をすることを、患者を通じて観察していました。たとえば、消毒液もない中でどうやってバイ菌の作用を防ぐことができたのか、とよく聞かれることがあるのですが、なぜだか傷が初期の段階で治まってしまうのです。それは、まるで人間の体に異常な環境を生き抜く力が備わっているかのようでした。

毎日のように血や切断された手足、うめき声、爆撃に囲まれていることは、精神的に非常につらいことでした。子どもが、たった一晩のうちに、頭の半分と眉毛を白髪にしてしまうこともありました。銃撃を目撃した女の子の顔が全面にわたって歪んでしまったこともあります。そういったものが戦争の影響なのです。

テレビを見ていると、チェチェン戦争は国際テロリストとの戦いだということがまことしやかに語られていたりするのですが、私はまさかロシア人はそんなことを信じないだろうと思っていました。というのは、実際に狙われているのは、私たち民間人だったのですから。

私自身がこうした苦難を乗り越えられたのは、スポーツをしていたからだと思います。子どものころから柔道をしていて、ソ連時代には国の選抜チームに選ばれたこともあります。柔道は私の人生にとても大きな影響を持っています。強い人間になること、忍耐を持つこと、挑発に乗らないこと、そういったことを柔道から教わったのです。


■子どもへの影響

チェチェン戦争の子どもへの影響ですが、毎年少しずつ改善してきてはいます。チェチェンでは建設作業が始まっています。しかし、残された最大の問題は、子どもの問題です。チェチェンでは、約1万の子どもが神経性の病気にかかっており、1万4000人の子どもが手足を失っています。爆撃や銃撃の影響によって、耳が聞こえなくなった子どもが450人、目が見えなくなった子どもが2000人います。これは私たちのような少数民族にとっては、非常に大きな悲劇です。

将来を担う世代である子どもたちを救うために、私はアメリカで友人とともにチェチェンの子ども達国際委員会(ICCC)を創立して、病院や聾唖学校に対する支援を行っています。支援はまだ限られたものにすぎませんが、これから可能性が広がっていくことを願っています。

今年の2月に、アメリカに亡命してから初めて、チェチェンに帰ることができました。チェチェンにはたくさんの新しいお墓があり、人々の顔を見るのはつらいことでした。人々の顔に戦争の影響が出ているからです。人々の顔を見て年齢を当てることはできなくなっていました。若い人の顔も皺や白髪に覆われていたからです。

この6年間でチェチェンで何かが改善されたようには、私には見受けられませんでした。メディアで報道されているように、チェチェンへの復興支援金があれば、もっと改善されていてしかるべきなのですが、お金の行方がわからなくなるという腐敗のレベルは想像を越えています。これはロシアでもチェチェンでもまったく同じです。

私たちにできることは限られていますが、子どもたちを一人だけでも治して上げることができれば、それだけでも大きな力ではないかと思っています。私たちのICCCのサイトは日本語でも読めますので、よろしければご覧ください。

http://www.chechenchildren.org/baiev/baiev_iccc.html


●質疑応答

――先ほどからロシア語を話されているようですが、ロシア語を話すことに心理的な抵抗はないのでしょうか?

チェチェン語でも話ができる状況であれば喜んでチェチェン語でお話しますが、ロシア語の方が世界中で通用する言葉ですので、ロシア語は自分たちの状況を説明する手段であると思っています。私はロシア語で教育を受けていますし、医科大学の教師もすべてロシア人でした。彼らのおかげで私は数千人のチェチェン人の命が救えたわけですので、ロシア語を使うことに内面的な葛藤はまったくありません。私は、この戦争について、ロシア人に責任があるとか、ロシアの国民が悪い、というようには考えておりません。戦争の責任はロシア政府にあると思っています。


――スライドには手術後に紅茶を飲んでいる写真がありました。修羅場の後に病院で記念写真を撮るような神経は、私には理解したがいのですが・・・。

今まで誰にもされたことのない質問で、よい質問だと思います。私にはロイター記者でもある甥がいて、彼がこうした記録写真を残してくれたのです。アメリカに亡命してから本を書くことになって、そこで写真が必要だということで、彼が残してくれた映像を写真にしました。ただし、彼はその代償を払って、2000年に自宅で銃殺されてしまいました。


――チェチェンの復興というのはどのように行われているのでしょうか?

ロシアからの復興予算が拠出されているほか、チェチェンでは石油が産出されますので、その利益の何%かが復興のために使われています。学校や病院の修復も行われていますが、これはインフラ全体の数%にすぎません。というのは、チェチェン全土で8割の学校や病院が破壊されているからです。しかし、あまりにも長い戦争のために、チェチェンでは一軒でも学校や病院が再建されたら喜んでしまえる、そんな状況になっています。医師や教師は大変劣悪な環境で働かなくてはなりません。医療器具が不足していますし、多くの人が国を捨てざるをえなかったために、医師数も不足しています。


――アメリカではチェチェンの状況はどのように報道されているのでしょうか?

ほとんど何も報道されていない状況です。報道されるとしても「テロ」との関連でだけですね。たとえば、モスクワの劇場占拠事件であるとか、ベスランの学校占拠事件であるとか。それ以上の情報をアメリカ人は持っていません。私が『誓い』を執筆したのも、こうしたプロパガンダではなくチェチェンの実情について知ってもらいたかったからです。ロシア側の言い分を聞くと、チェチェン戦争はもう終わっていて、チェチェンは平和だということになっています。けれど、根本的な問題はまったく解決されていないままです。「テロ」が起こるたびに驚くのではなく、その背景にある原因を知ってもらいたいと思っています。ロシアのメディアは政府の完全な統制下にあります。ベスランの悲劇は世界中に知れ渡っていますが、チェチェンでもあのような行為は支持されていません。一方、チェチェンで亡くなった4万人の子どもたちのことは誰も知らないのです・・・。


――アンナ・ポリトコフスカヤの殺害についてどう思われますか?

彼女は非常に良心を持ったジャーナリストで、チェチェンの真実を書いていてくれました。私もアメリカのワシントンで彼女と何度か講演をしたことがあります。私は、彼女に対して、「あなたは剣の剣先を歩いているようなものだ」と警告しました。けれど、彼女はジャーナリストとしての原則が何にも勝るものだと思っていました。彼女が書き続けてきた真実は、ロシアが知られたくなかった真実でした。彼女の代わりにチェチェンの真実を書いてくれるような人は存在しないと思います。


――チェチェンの復興のために私たちにできることは何ですか?

まず、私たちの悲劇に無関心でいてほしくないと思います。ほんの少しの支援であっても、チェチェンの人々にとってはかけがえのないものなのですから。ひとつには、子どもたちに対する人道的支援、もうひとつには、若者たちに外国で教育を受ける権利を与えていただきたいと思います。

(文責:バイナフ自由通信社)