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私が何かをすることに意味なんかあるのか? と、よく考える。それは個展を開いて、人々に作品を示した時に見つかり、あるいは何かの行動をしてみる時ーー例えば誰かに異議申し立てをしたり、プラカードを掲げた時に見つかり、炭酸水に浮かぶ泡のように消えていく。
行動によって、意味がみつかる。
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嫌なことというのは、だいたい言葉の領域で起こる。悪いことを言われたり、ときには自分が口にしてしまったり。
暴力というものもある。認めたくはないが、それも言葉の一種だ。今も、それが恐ろしくて一歩が踏み出せない自分がいる。
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「そうだから絵を描くんだ」と、見知った子どもに言ってみる。絵は何かからの逃避なのかもしれないし、あるいは、救いであってほしい。
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見えない大きな波が、私たちを押し流してしまいそうだ。
ひとかたまりになってそれを凌ごうとする人々もいるけれど、あまりにも波は高い。
その波が、もしも幻影だとしても、私たちが翻弄されていることは事実だ。
もし自分を売らなければならない時があれば、できるだけ高い代償を払わせるべきだ。
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人が人を所有することはできない。
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苦しみに見合う何かは、現代美術の中にはほとんどない。人々が離れていくのにも道理がある。そのように認識する美術家にとって、過去はほとんど負債のようでもある。
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余暇ではなく、人生。仕事ではなく、苦役。
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生産をするには、天然資源を使わなければならない。生産に携わる圧倒的多数の人は、その日を生きていくのが精一杯であり、その上前をごく一部の者達がはねている。
上前をはねる者達は、それをひたすらに蓄えたり、あるいはモノやサービスに換える。蓄えられた財物は、天然資源を蒸留して得た水やアルコールのようなものだ。それらは紙幣、土地、信用枠のかたちをとる。
一度使った天然資源は戻ってくることはない。紙切れか、さもないと単なる数字に変わって、誰かのところに隠匿されている。そして最後の時ーー資源を使い切る時が近づく。
これが私有財産制というおとぎ話だ。