モスクワ劇場占拠事件から5年(2)

 22日付のモスクワタイムズに掲載されたルポルタージュを紹介したいと思う。記事のタイトルは「ドゥブロフカ:外国人の見た悪夢」。自身も人質となり、米国人の婚約者と娘を亡くしたカザフスタン出身の女性の目から見た、モスクワ劇場占拠事件が再現されている。

 ロシア政府は、ロシア人の遺族に対して支給する月々25ドルの補償金を、外国人の遺族には与えていない。当局が演出しようとしている最悪のシナリオは、政府から補償金さえ受け取れない遺族が、愛する者の命をわずか25ドルで買い叩かれた遺族を羨み、政府から補償という名の侮辱を受け取る遺族が、自分よりもさらに惨めな境遇の遺族がいることに最後の慰めを求めるというものだ。そして、私たちは、彼らの悲劇に憤りながら、自分がロシアに生まれてこなかったことに安堵し、誰もが当局への抗議を忘れてしまう―そうしたシナリオである。(邦枝律)

2007年10月22日(月)

ドゥブロフカ:外国人の見た悪夢

イゴール・タバコフ/モスクワタイムズ

原文: http://www.moscowtimes.ru/stories/2007/10/22/002.html


 スヴェトラーナ・グバリョーヴァがモスクワ病院の集中治療室で目覚めたとき、最初に聴こえてきたのは、ドゥブロフカ劇場で亡くなった129人の人質の遺族に対するウラジーミル・プーチン大統領の追悼の言葉だった。
 グバリョーヴァは、米国市民の婚約者と、彼女自身と共にカザフスタンからロシアにやって来た13歳の娘の安否を気遣った。けれども、プーチンは、56時間に及ぶ立てこもりによる外国人の被害者については、何一つ語らなかった。事件が起こったのは今日から5年前だった。42人のチェチェン・ゲリラが、「ノルド・オスト」ミュージカルの上演中に、モスクワ南東の劇場を襲撃したのだった。
 外国人被害者に対するプーチンの沈黙はそれほど重要なものではなかった。もしも、ロシア当局が突撃時に外国人の人質を軽率に無視し、彼らをまったく救出しようとせず、ロシア市民に与えているごくわずかの補償金の支払いさえ拒んだという事実を無視できるなら―と、グバリョーヴァらは語る。
 ロシア政府の発表によると、人質になった800人の中には75人の外国人がいた。ロシア軍の突入によって死亡した外国人は9人で、その中には、グバリョーヴァの娘のサーシャ・レトヤゴと、彼女の婚約者でオクラホマ・シティに住むサンディー・ブッカーが含まれていた。
 政府の代表者はグバリョーヴァに何も伝えに来なかった。彼女は病院で聞いたニュースから、二人が亡くなったことを知った。その後、彼女は、ニュースと、娘の遺体の確認を手伝ってくれた人たちから、娘の死が圧死だったことを知らされた。彼女の娘は、バスで病院に運ばれたときに、意識不明の患者たちの山に埋もれて亡くなったのだ。
 二人を失った後はたった一人で戦ってきたとグバリョーヴァは言う。ロシア当局も、彼女の故郷であるカラガンダ(訳注:カザフスタン東部の都市)も職場のカザフ製鉄所も、彼女をまったく支援してはくれなかった。
 けれども、米国からは何百通もの同情の手紙が寄せられ、グバリョーヴァの郵便箱を溢れさせた。手紙は充分な支援を申し出るものだった。
 「私にとっては手紙がセラピストになりました。私の近くにはこういう問題の専門家はいなかったし、これからどうやっていけばよいかも解らなかったのですから」。グバリョーヴァは、カザフスタンカラガンダで電話インタビューに応じて語った。
 彼女に唯一の財政支援をしてくれたのは、米国市民のアンドリュー・モギルヤンスキーがテロの被害者を支援するために立ち上げたペンシルバニア基金だった。
 劇場占拠事件が起こる数ヶ月前までは、グバリョーヴァの人生は喜びに満ちていたという。彼女は、友人の紹介で49歳の電気技師のブッカーと出会い、何度かメールと電話でやり取りをした後、娘を連れてオクラホマ・シティに移住し、彼と結婚するはずだったのだ。
 在モスクワ米国大使館でのインタビューもうまく行き、彼女と娘のビザも近々発給されることになっていた。グバリョーヴァは、娘とブッカーと3人で、祝杯をあげるために「ノルド・オスト」を訪れた。10月23日の水曜日の夜だった。
 覆面をしたゲリラたちが、宙に自動小銃を乱射しながらステージを占拠したのは、ミュージカルの二番目のプログラム「パイロットの踊り」が始まったときだった。
 「最初はたちの悪い冗談だと思っていました。ですが、サンディーはすぐに何が起こっているのかを理解しました」
 グバリョーヴァの前で、突撃ライフルを持ったゲリラたちは、俳優をステージから追いやり、音楽家をオーケストラ席から観客席に移動させた。ブッカーは、ゲリラたちが銃撃を始めたら頭を伏せるようにと二人に注意した。彼は祈りの言葉をつぶやいていたが、自分が劇場を生きて出られないことをまるで覚悟しているようにも見えた、とグバリョーヴァは言う。
 ゲリラの指導者だったモフサル・バラーエフは、自分たちの襲撃はチェチェン戦争の一部であり、外国人を傷つけるつもりはないと、当初から人質に語っていた。バラーエフは、外国のパスポートを見せた者を解放することを約束した。
 ところが、ロシア政府の交渉担当者は、子どもと女性の解放を優先するよう主張し、外国人を解放するという提案を受け入れようとしなかった。ノーボスチ・ロシア通信社によると、FSB広報担当のセルゲイ・イグナチェンコは、事件の三日目に当たる10月25日に、「さらに、我々は国籍に関わらず全員の解放を要求した」と述べている。
 いずれにせよ、グバリョーヴァも娘もブッカーも、パスポートを持ち合わせていなかった。ブッカーはパスポートをホテルに置いてきてしまっていたし、グバリョーヴァと娘はビザを発給してもらうために米国大使館にパスポートを預けていたのだった。
 けれども、ブッカーはオクラホマの免許証を持っていたため、それをバラーエフに渡した。バラーエフは明らかにオクラホマの免許証を初めて見たようで、それを注意深く観察していた。バラーエフは最初の夜にはブッカーを含め誰も解放しなかった。
 「今日はだめだ。明日解放してやる。奴らがお前たちを撃って、それを俺たちのせいにされるのはごめんだからな。ブジョンノフスクの二の舞を踏むつもりはない」とバラーエフは言ったという。
 1995年6月、チェチェン・ゲリラは、1500人を人質に取り、ロシアのブジョンノフスクの病院を占拠した。100人以上の市民が立てこもりによって死亡した。
 グバリョーヴァは始終娘の身を案じていた。サーシャが劇場のトイレに行かせてもらったとき、彼女はロビーを歩かされ、チェチェン人狙撃手が出口を包囲しているのを目撃したのだった。
 その後、多くの人質がトイレに行きたがったため、ゲリラたちはオーケストラ席を代わりに使うよう命令した。オーケストラ席からは次第に悪臭が漂ってきたが、ロビーの窓が壊れていたのがいくらかの救いになった。
 ゲリラたちは、劇場を占拠してから最初の12時間以内に、12歳以下の子どもたち15人を解放したが、サーシャは13歳だったため解放されなかった。サーシャはすぐに空腹と渇きを訴えた。ゲリラたちは、劇場の購買店から食料を持ってきて人質に配った。ゲリラたちは現金箱も運んできて人質に尋ねた。「誰か金が欲しい奴はいるか?」
 「誰も答えませんでした。それでゲリラたちは箱を床にほうったのです」
 グバリョーヴァは、その後、オーケストラ席で紙幣を見ることになる。それはトイレットペーパーと化し、使い捨てにされていた。
 グバリョーヴァは恐ろしさのあまり食欲もなかったが、ひどく喉が渇いていた。購買店にあったファンタやコカコーラ、ミネラルウォーターはすぐになくなってしまい、人質たちはトイレの水道水をあてがわれた。
 問題は10月25日に解決した。ジャーナリストのアンナ・ポリトコフスカヤが、ゲリラたちを説得して、水の缶が運び込まれることになったのだ。昨年暗殺されたポリトコフスカヤは、占拠犯たちが自分を仲介役に指名していることを知り、ロサンゼルスの授賞式からモスクワに飛んできたのだった。
 劇場では、人質たちは誰もが巨大な爆弾の置かれた第九列目付近に座るのを避けていたため、その周囲には大きな円状の空席ができていた。女性自爆テロリストはグバリョーヴァに言った。
 「バカみたい。あの爆弾は何人かが死ねば済むっていう代物じゃないのに。ビルが三つくらい吹き飛ぶんだから」
 劇場のバルコニーには子どもたちを連れた母親がいた。子どもたちは解放されたが、母親は残された。「彼女は泣きながらバラーエフに懇願していました。『ヤシール、あの子たちはまだほんの子どもです。帰り道も解らないし、迷子になってしまいます』」
 人質たちは、他のゲリラたちがバラーエフを「ヤシール」と呼ぶのを聞いた後は、彼に対して「ヤシール」という敬称を使っていた。
 バラーエフは結局その女性を子どもたちと一緒に解放したという。
 ゲリラたちは、人質がホールの回りで大声で会話したり動いたりすることを禁止したため、劇場は銃声がするほかは不気味に静まり返っていた。チェチェン人たちは、外で物音がするたびに、入口を銃撃した。あるとき、後方の列にいた若い男性が立ち上がって座席の背を飛び越えたため、ホールに向かって銃が放たれ、女性が撃たれた。
 彼女が撃たれた瞬間に彼女の夫が上げた悲鳴にはぞっとした、とグバリョーヴァは語る。彼は、「リザ、母さんが撃たれた!」と泣き叫んだ。
 だが、女性は生きていた。赤十字の関係者の女性が携帯電話を返してもらい、医師を呼ぶよう命じられた。
 「あれは事故だったのです。私が知る限り、彼らは故意に人質を殺そうとはしていませんでした」とグバリョーヴァは言う。
 劇場が占拠されてから7時間後、ゲリラたちは、どういうわけか劇場に入り込んできた26歳の女性を殺害した。
 占拠の最終日に当たる10月25日の夜、バラーエフはゲリラたちに人質をロシア人と外国人のグループに分けるよう命令した。合計75人が外国人と見なされた。グバリョーヴァの書類は米国大使館にあったため、彼女と娘は最初は米国人として扱われた。
 「彼らはサンディーに電話を渡して、彼が米国大使館に連絡を取って、翌日に大使館の代表をよこすよう交渉させてくれました」
 ついに、米国大使館とカザフ大使館との間に合意が成立し、彼らは10月26日の午前8時に解放されることになった。
 グバリョーヴァは、バラーエフが人質に向かって10月26日の午前10時から11時の間に交渉が始まると述べたことを、今でも覚えている。
 「バラーエフはそれまでゆっくり休むよう私たちに言いました。交渉が始まるまでは攻撃されることもないだろうから、と」
 人質たちは安心して眠り出したとグバリョーヴァは言う。
 グバリョーヴァが娘とブッカーを最後に見たのは午前3時20分だった。「二人は抱き合いながら寝ていました」
 グバリョーヴァも眠りに落ち、目覚めたときには第七病院の集中治療室にいた。人質とゲリラたちは、誰もが午前5時半ごろには意識を失っていた。ロシア軍特殊部隊が、正体不明のガスを劇場に撒き散らして突入してきたのだ。ガスによってゲリラも人質も昏睡し、ゲリラたちは銃を撃つことも爆弾を起動させることもなかった。
 米国大使館の代表がブッカーの死をグバリョーヴァに正式に通知したのは二日後の10月28日だった。翌日、グバリョーヴァは遺体置き場に確認に行き、ブッカーがガスによる併発症で治療の甲斐なく死亡したことを医師から聞かされた。
 グバリョーヴァと多くの元人質たちとその遺族は、救出作戦がもう少しましなものであれば、多くの命が救われたはずだったと確信している。
 「私たちが主張しているのは、遺体が病院に運ばれるときに、ひどい混乱があったということです。生存者と遺体が一緒にされていたため、生存者は治療を受けることさえできなかったのです」と、NGO「ノルド・オスト」のタチヤナ・カルポヴァ代表は語る。彼女は事件で息子を亡くしている。
 公式調査の結果、人質の死は、劇場にガスを混入するために「使用された薬物に対する特殊な解毒剤がなかった」ことに起因する、とされた。
 けれども、遺族たちが訴えを起こしたにもかかわらず、検察庁は、医療ワーカや特殊部隊の将校を訴追しようとはしなかった。
 事件から約一年後、検察庁は、人質の死が「生命と身体に危険をもたらす好ましからぬ要因の複合的結果と、正体不明の化学物質の働きによる呼吸不全によってもたらされた」と結論づけた。
 検察庁の発表は、「合意を違えて、子どもたちと外国人を解放しようとしなかった」ゲリラたちを非難するものでもあった。
 この結論がすぐに公開されることはなかった。グバリョーヴァと遺族たちは、裁判所の命令を通して、ようやく文書を入手することができたのである。
 グバリョーヴァは、合意を破ったのはゲリラたちではないと言う。
 彼女の結論を、少なくともカザフスタンアルティンベック・サルセンバエフ前ロシア大使は支持している。「我々はカザフ市民を翌朝8時に解放することで合意していました。その夜に突入が行なわれることは聞かされていませんでした」と、2003年10月26日、サルセンバエフはカザフスタンのテレビ番組「カザフの状況」で発言した。
 グバリョーヴァは、救出作戦をめぐって刑事裁判を要求していたが、2005年には上告を退けられた。法廷は、グバリョーヴァの娘に対する補償も却下した。
 「なぜ法廷がすべての外国人の申請を却下するのか理解に苦しみます」と、グバリョーヴァを含め4人の外国人遺族の弁護士を務めるイゴール・トゥルノフは語る。
 大半のロシア市民は、政府から少額の補償金を受け取っていると、息子を亡くしたカルポヴァは指摘する。彼女も毎月615ルーブル(約25ドル)を受け取る資格があるが、受給を断ったという。「あれっぽっちのお金を受け取っても侮辱されるだけです」と、彼女は言う。
 ブッカーの家族はロシアで法的な措置を取ろうとはしなかった。
 けれども、何人かの遺族は、ストラスブール欧州人権裁判所に提訴し、裁判所は申請を検討している。カルポヴァは、ストラスブールからの問い合わせに対するロシア政府の回答のコピーを受け取ったという。
 「ロシア政府は、事件のアフターケアは万事好調で、支援を求める者には支援を与えていると言っています」
 無論、カルポヴァは、欧州人権裁判所がロシア政府の回答を間に受けないことを確信している。
 グバリョーヴァは今年の10月26日にも娘を弔いに行く。彼女は、あれから毎年、モスクワのトロイエクロフスコイ墓地にある娘の墓参りをしている。ポリトコフスカヤの墓からそう遠くない場所だ。
 「娘はずっとモスクワに住みたいと言っていました。だから彼女をカラガンダではなくモスクワに葬ったのです」
 グバリョーヴァはブッカーの墓を訪ねたことはない。米国は遠すぎますから、と彼女は言う。

 アンナ・ポリトコフスカヤ著『ロシアン・ダイアリー』より

 2005年5月4日

 モスクワのザモスクヴォレチエ地区裁判所で、イリーナ・ヴァシナ裁判官がスヴェトラーナ・グバリョーヴァの訴えを退けた。スヴェトラーナはノルド・オストの人質であり、十三歳の愛娘とアメリカ人のフィアンセ、サンディー・ブッカーを事件で亡くしている。
 スヴェトラーナは、以下のことを訴えていた。すなわち、家族が死んだ時間と場所の問い合わせに検察が答えないのは違法であること、ノルド・オストで人質が取られていたあいだの医療行為について検察が調査を否定しているのは根拠がなく違法であること、同様に、捜査を率いるウラジーミル・カリチュクが劇場に突入した特殊部隊員を訴追しない決定をしたのは違法であること。
 スヴェトラーナは震える声で検察を非難した。自分の家族やほかの人質を殺した人物が栄誉に浴している・・・ドゥブロフカ劇場をガス室に変えてしまった罪を彼らに着せないためにあらゆる努力がなされている・・・ノルド・オストの真相を突き止めなかったことが、ベスランというさらに大きな悲劇につながった・・・。
 スヴェトラーナの涙ながらの訴えが五分間続いたとき、裁判官が突如審理を打ち切った。彼女がこの訴えをしたのは、事件全体、または捜査手法の合法性に対して司法に判断を示させることによって判例をつくりたいと考えたからだった。