シャミーリ・バサーエフ:「(チェチェン戦争の)戦略的勝利は我々の手中にある」

カフカスセンター
http://www.kavkazcenter.com/eng/content/2006/01/12/4362.shtml

2006年1月12日 
チェチェン共和国(イチケリア)政府の第一副首相の座にあり、(チェチェン国家防衛評議会)軍事委員会―マジュリス・アル・シュ―ラ(諮問評議会)―代表を兼務し、コーカサスにおけるイスラム戦士を統率する野戦司令官シャミーリ・アブ・イドゥリス(通称シャミーリ・バサーエフ)が、カフカスセンターの独占インタビューに応じ、カバルディノ・バルカリアにおける先日の事件*1コーカサスの状況について語った。

カフカスセンター:

モスクワ政府および(チェチェンの)傀儡政権は、ナリチクの事件を彼らの利益に沿う形で報道しようと必死になっています。ロシアや西側諸国は、事件の背景としてあらゆるもの―いわくイスラム教徒の反乱から『国際テロリスト』によるマネーロンダリングといったものまで―をあげつらって報道しています。10月13日にナリチクで行われた襲撃事件の目的と役割は何だったのでしょうか?

バサーエフ

慈悲深く慈愛あまねアッラーの御名において!
世界の創造主、我々をムスリムにし給い、御許に導き給うジハード(聖戦)で祝福するアッラーに賞賛あれ!
預言者ムハンマドに平安あれ、そしてその家族と弟子、最後の審判の日まで彼に従う者たちに平安と恩恵あれ!

そして、アッラーに賞賛あれ。コーカサス前線で戦うイスラム戦士たちは、アッラーの慈悲によって、ロシア占領軍と売国奴の道化どもに対する襲撃作戦を実現させました。この襲撃の目的は、敵を直接攻撃することでした。また、これは実際に、ナリチクを不信心者と偽善者ども―ロシアの新帝国主義者とその悪魔的な政策に従う者たち―から解放することを意図したカバルディノ・バルカリアにおけるイスラム教徒の反乱という面も併せ持っています。

私は2年前にもカバルディノ・バルカリアにいましたが、当時は現地の主流派イスラム教徒との相互理解をが行われるまでには到りませんでした。しかし、今年*2の春には彼ら自身が私をカバルディノ・バルカリアに呼び寄せたのです。

この事件の主要な成果は、カバルディノ・バルカリアのイスラム教徒が、アッラーに対するイスラム教徒の義務と自らの意志にもとづいて攻撃を遂行したということ、そして公正と自由と名誉を求めるジハードを行う義務を成し遂げたということです。

カフカスセンター:

クレムリンは、―つねに強調されるように―モスクワに忠実だったはずのカバルディノ・バルカリアの人々が市街地での攻撃作戦に加わったという事実に特に悩まされています。多くの識者は、これをチェチェン指導部による戦線の拡大という戦略に絡めて解説しています。一方、戦線の拡大は不可避の現象であり、モスクワやグローズヌイの意図とは無関係であるという者もいます。こうした評価はどの程度真実なのでしょうか?

バサーエフ

我々は2002年の評議会においてジハードを拡大する戦略を決定し、アッラーのお導きによって首尾よくそれを遂行しています。この件に関しては、多くをロシアの指導部とチェチェンの傀儡政権に負っているとも言えます。

彼らが口先で何と言おうと、そして我々にどんなレッテルを貼ろうと、彼らは自分自身の行為によって、チェチェン戦争がチェチェン人のみならずロシア国内におけるすべてのイスラム教徒の自由を侵害して続けられていることを証明してしまっているのです。イスラム教徒には礼拝の自由はありません。モスクは破壊され閉鎖されています。また、(男性は)髭をたくわえ酒やタバコを好まないために、冷遇され苦しめられています。妊娠中のイスラム教徒の女性でさえ、ショールを羽織り慎ましい服装をしているということで虐待され殴打されているのです。

ロシア大統領ウラジーミル・プーチンに率いられた戦争狂の悪魔どもは、クレムリンでショーを上映しているのです。そして、FSBロシア連邦保安庁)やGRU(ロシア連邦軍参謀本部情報総局)の参謀によって操られているロシア正教会が権力を握っています。

ロシア正教会の指導者は、クレムリンが任命したイスラム教法典説明官がイスラム教に対するのとまったく同じ態度でもってキリスト教に接しています。そういうわけで秋には、チェルケスの市街地におけるコーカサス前線評議会の会議で、次のような決議が採択されました。それは、ロシア正教会を過激派組織―ロシアにおける植民地主義帝国主義政策の尖兵―であると認識し、戦争が終わるまでにコーカサスにおける彼らの活動を追放し、ロシア正教会による過激な行動を止めさせるというものです。

チェチェン戦争の拡大は、一方ではそれが不可避的な現象であるという運動法則によって、他方ではグローズヌイとモスクワの意図によって、なされています。ですが、ロシアは我々がボルガ川を渡る*3―偶然にも我々は2006年の夏にボルガ川を渡る予定でいますが―前に戦争を終わらせることもできるのです。

カフカスセンター:

双方の犠牲とナリチクで軍事目標を襲撃したイスラム戦士の数に関しては、情報が錯綜しています。モスクワおよびチェチェン傀儡政権によると、70〜90人のイスラム戦士がナリチクでの戦闘で死亡し、ロシア側の犠牲者数は軍隊と警察を合わせて35人だと言われています。一方、犠牲になった無辜の市民は14人であると発表されました。しかし、ナリチクの住民による多くの証言では、死亡した市民をイスラム戦士と見せかけるよう特務機関が情報操作を行っているということです。イスラム戦士の司令官は事件の犠牲者数をどのように見積もっていますか?

バサーエフ

217人ほどのイスラム戦士が我々の側から作戦に参加しました。ナリチクの中心にある主要交差点に配置するはずだった150人のイスラム戦士も別にいましたが、彼らは結局遊軍になってしまいました。我々は彼らを町からカシハタウ方面に移動させることができなかったのです。というのは、10月13日の朝に、我々のグループの一団が不信心者と偽善者どもに発見されてしまったため、ハサニャやベラヤ、レチカ方面に向かう道路が閉鎖され、車を動かすことができなかったからです。

我々の側では37人のイスラム戦士が犠牲になりました。当時死亡したと見なされたイスラム戦士の四分の一は後に生存が判明しています。不信心者と偽善者どもの被害に関しては「殆ど死に態」というものでした(コーカサス戦線司令部推計:敵の全死傷者数は300名以上である(カフカスセンター))。

無辜の市民に関して言えば、ロシア当局がイスラム戦士を逮捕する特殊計画を実行していることは秘密でもなんでもありません。例えば、チェチェンでは、占領当局が一人のイスラム戦士を逮捕したり殺害することに一週間続けて失敗するたび、ボーナスが差し引かれていくのですから。

したがって、ナリチクであれほど多くの「イスラム戦士の死亡と逮捕」が伝えられたことは驚くことではありません。まさにこういうわけで、ロシアはあらゆる機会にかこつけて私の名を出して「燃え上がる夏」*4―これは私の台詞ではありませんが―をバサーエフが「うまくやらかしている」ということを言っているわけです。

もちろん、自ら設定した目的を達成できなかったため、戦術的には我々はこの作戦で敗北をこうむりました。しかし、この作戦に参加した400人のイスラム戦士がすべて死亡していたとしてもなお、これは戦略的には大きな勝利なのです*5

このことを我々の敵に理解させるためには、スパルタ王レオニダスがテルモピュライの戦いで敵軍に言い放った「我々は戦いには負けたが戦争には勝利した」という言葉を引き合いにしてもよいかもしれません*6

アッラーの御心のままにロシアはこの戦争に敗北したのです!

カフカス・センター:

当初人々はコーカサス戦線というものに関して懐疑的な見方をしていました。ロシアのコメンテーターは口を揃えたようにそれを「イスラム戦士によるプロパガンダ」であると言い、イスラム戦士には大規模な軍事行動をするだけの実力がないと主張していました。今日ではそうした主張はもはや聞かれません。記者団から寄せられたもう一つの質問に移りましょう。コーカサス戦線とはいったい何なのでしょうか?コーカサス戦線を担う組織の存在は、コーカサスにおけるイスラム戦士の戦略にラディカルな変化が生じている兆候ではないのでしょうか?(チェチェン戦争のコーカサス全域に対する拡大という)この戦略はどこに向かっているのでしょうか?

バサーエフ

事実、実際の状況を適切に知らされていない人々はみな、今年の5月*7コーカサス戦線が形成されたということを信じようとしませんでした。我々の支持者の中にさえ、サドゥラーエフ*8が戦争ごっこにかまけていると批判する声もありました。(ラジオ・リバティの記者アンドレイ)バビーツキでさえ、コーカサス戦線が形成されたナリチクで評議会が開催され、その途上にあるテレーク川で私が溺れかけたことを話したときには、信じられないと言って苦笑していたのですから。

ですが、我々は誰かに何かを示したり証明したりするために戦っているわけではないのです。我々はアッラーの慈悲のもとに動いています。そして、我々の計画を現実化する上で、ブタどもの密告が障害になることはありません。

コーカサス戦線は、チェチェン共和国軍隊の構造要素の一つです。戦線組織はコーカサスにおいてイスラム戦士の戦略にラディカルな変化が生じている兆候ではありません。それはただ単に次のジハードへの拡張なのです。

コーカサス全域におよぶロシアの占領機構に協力しようとする植民地主義者を打倒しようというコーカサス戦線評議会における最近の決定は、戦略上の変化と言ってもよいかもしれません。

しかし、戦略におけるラディカルな変化に関して言えば、この点では、コーカサスイスラム教徒は、ロシアの植民地主義者による帝国の圧制から自らを解放するために、より多くの努力を結集する必要があると感じています。そして、ますます多くのイスラム教徒が、全コーカサスの唯一の最高指導者を決定することに対して疑問を呈しています。全コーカサスイスラム戦士が誓約をした以上、今やサドゥラーエフがすでに実質上のコーカサスの最高指導者なのですが。我々は2006年の春にこの問題に関する統一評議会を開催し、コーカサス宗教学者による諮問機関を組織する問題についても取り上げるつもりでいます。

カフカスセンター:

チェチェンにおける軍事状況はどのようになっていますか?

バサーエフ

私は10月15日の夜にナリチクを出て、オセチアとイングーシ、チェチェンを訪れました。そこで大部分の防衛区域の野戦司令官と会見し、多くのイスラム戦士の基地を視察して、彼らの越冬の準備が満足の行くものであることを確認しました。私はドク・ウマーロフ*9と一週間にわたって山間での滞在を楽しみつつ、コーカサス戦線におけるイングーシやオセチア区域を指揮する―ドク・ウマーロフを訪ねたときに私が連れて行った―野戦司令官の参加する南西戦線の評議会を開催しました。評議会で我々は組織化の方策について討議しました。

その後、東戦線における防衛区域をいくつか訪ね、自身の作戦担当副官や野戦司令官ヌルディンを始め、多くの防衛区域の野戦司令官らに会いました。アッラーの慈悲によって、状況は良好で、全部隊が冬季に向けて首尾よく準備を進めています。

それから、私は最高司令官であるサドゥラーエフに会い、コーカサス全域の状況を報告しました。我々は一週間討議を行い、2006年に向けての計画に合意しました。

我々はまた「チェチェン議会選挙」と呼ばれているブタによる出し物については特別な注意を払わないことに決めました。我々イスラム戦士は「ブタがブーブー言おうがジハードは続く」と思っていますから。

このブタの出し物が行われたとき、私はグローズヌイにいて、人通りのない街路で投票と呼ばれているものが実施されているのを見ています。

コーカルでは中心市街は閉鎖されていました。というのは、(ロシア内務省のラシード・)ヌルガリーエフが、この出し物が「首尾よく演出された」褒美として偽善者どもに賞を授与したからだということです。

ロシア人どもは、偽善者どもを勇気づけ手懐けておくために、「勇気の勲章」と呼ばれる十字架の形をしたあらゆる種類の装飾品を胸につけさせ、そのために多額の資金と大量の物質を消費しているのです。不信心者は勲章をもらえば喜びますし、偽善者どもは「これは十字架ではなくてプラス記号です」などと言うのです。

ナリチクの事件において、全土から軍隊を町に召集させるためにどれほどロシアが焦っているかということに気づいたとき、我々は初めてロシアがいかに弱く傷つきやすい存在であるかを知ることができました。ロシアは今なお充分な軍隊を持っているわけではないのです。

プーチンがことさらに強さを演出しようとする理由は、ロシアの弱さとイスラム戦士に対する恐怖に求められるかもしれません。そして、このことはまた、残忍で野蛮な行為がロシアとコーカサスの道化どもによって行われていることの説明にもなるでしょう。

しかし、彼らが何をしようとすべてはアッラーの意思に背く無駄な行為です。彼らがどこに行こうと、イスラム戦士は敵を打ち倒し、我々は完全な勝利を勝ち取るまで彼らを殺し続けます。

ジハードは拡大しています。我々が直面している唯一の困難は、我々のジハードを支える資金とメディアです。ですが、アッラーのお導きによって、我々は春までにこうした問題を解決できるでしょう。

アッラーが我々を正しい道に導いてくれますように。

アッラーは偉大なり。

*1:2005年10月13日、ロシア南部カバルディノ・バルカリアの首都ナリチクの警察署や空港など約10施設がチェチェン独立派と見られる武装勢力によって同時に襲撃され、市街戦および治安当局の制圧に巻き込まれた多数の住民が死亡した。

*2:おそらく2005年を指す

*3:1942年9月、ナチス・ドイツの攻撃によって陥落寸前に陥ったスターリングラードを防衛するために、ソ連兵がボルガ川を渡ってスターリングラードに向かった歴史を踏まえている。

*4:ロシア―チェチェン問題においては毎年夏に大きな事件が起きることからこのような表現がなされている。

*5:戦略とは戦争全体の勝敗を決めるための基本的な構想とそれを実現するための技術であり、戦術とは局地的な戦場で勝敗を決するためのいわば応用の技術。つまり、状況を作る技術が戦略であり、状況を利用する技術が戦術である。

*6:実際には、第三次ペルシア戦争(AD.480〜AD.479)において、264万人のペルシア軍に対して4200人のギリシア軍を指揮して戦ったレオニダスは、激戦の末にギリシア人の裏切りによってテルモピュライで戦死している。

*7:おそらく2005年5月のこと

*8:独立派・チェチェン共和国大統領

*9:独立派・チェチェン共和国副大統領