ロシアの圧制に対する私たちの闘い

 ガルリ・カスパロフ 2007年12月1日
 原文: http://www.theotherrussia.org/2007/12/01/kasparov-on-jail-and-elections-in-the-wall-street-journal/

 もう何年もの間、欧米諸国の政府は、ウラジーミル・プーチンのロシアを自分たちと対等な存在として受け入れようとしてきた。欧米の外交官たちは、今ではロシアと欧米が違うものであることに気づいているが、その差は些細なもの―EUの公式発言によれば「許容範囲」―であると述べている。

 けれども、私や多くの仲間たちにとっては、今週、その「許容範囲」は11平方メートルだった。11平方メートルというのは、先週土曜日のモスクワでの反体制デモで、「業務執行妨害」を問われて、私が五日間入れられていた独房の面積である。業務執行妨害というのは、私が独房に入れられてからモスクワ地方裁判所がつけた罪状で、私を逮捕した警官たちはそんな逮捕状など持っていなかった。
 私の逮捕と裁判には奇妙な点が山ほどあるが、これはその中で最も地味なものだった。数千人もの人々とデモ行進をした後、私たちは著名な人権活動家レヴ・ポノマレフが率いる別の集団と偶然出くわした。そこで、私たちは中央選挙委員会の事務局に抗議署名を提出しようとした。

 警官たちが地下道を封鎖していたので、私たちは大通りを渡らなければならなかったのだが、そこもすぐにさらに多くの警官たちに封鎖されてしまった。警官たちが近づいてきたので、私は署長のマジ・ゲンと話をした。ヴヤチェスラフ・コズロフには以前会ったことがあった。彼は、私たちが中央選挙委員会の事務局に行くことはできないと言い、戻るように警告した。私は、20人ほどの小規模な使節団なら、署名を提出しに行ってもよいのではないかと提案した。彼はそれでも受け入れず、私たちは引き返した。

 もちろん、警察署長が一連の指揮を取っていたというのは正確ではないだろう。警察署の中でさえ、私服のKGB将校が露骨に指揮を取っていたし、私の逮捕も裁判のための序曲にすぎなかった。OMONとして知られている特殊部隊が、私を逮捕するために参加者を無差別に蹴散らしてきた。彼らが携帯で「絶対にカスパロフを捕まえろ」と話しているのも、私たちには丸聞こえだった。

 私たちは拘留された瞬間から―警察署で取調べを受けているときでさえ―弁護士に接見することもできなかった。三時間の裁判の後、裁判官は裁判を翌日に延期すると述べた。ところが、席を立った裁判官は、戻ってきて、「勘違いしないで。あなたの裁判はまだ続くのよ」と言いに来た。これがいわゆる「電話裁判」というやつで、ロシアではお馴染みのものだ。

 路上も警察署も、KGBとOMONが取り仕切っていた。被告は目撃者を呼ぶことも許されず、デモや逮捕の瞬間を撮影したビデオや写真があったにもかかわらず、証拠を提出することも許可されなかった。

 見せ物の裁判が終わった後、私はモスクワのペトロフカ38警察の留置所に連行され、ここでも法的手続きは無視され続けた。私は、金属の調度品に囲まれた小さな箱の中で大切にもてなされた。床にはトイレの代わりに穴があいていた。私は電話をかけることもできず、面会者はすべて面会を拒否された。私の弁護士のオルガ・ミハイロヴァと、ウラジーミル・リズホフ議員でさえ―法的な権利があるにもかかわらず―面会を許可されなかった。私の前にチェスの世界チャンピオンだったアナトリー・カルポフ―私の長年の素晴らしいライバル―は、私に面会するために気前よく賄賂を出そうとしたが、それでも追い出されてしまったのである。

 食事のことも心配だった。なにしろ刑務所のスタッフから何かを差し入れてもらうことなど問題外だった(私はアエロフロートには乗らない。「パラノイア」はとっくの昔にプーチン体制に反対する人々の間で時代遅れの概念になってしまったけれど)。日曜日になると、外部からの圧力が強まってくれたおかげで、私は自宅から届けられた食料品を受け取ることができた。

 結局のところ、私の釈放でさえ、合法的には行われなかった。私は、メディアや支援者―多くが逮捕されたり、デモ中に嫌がらせを受けていた―の前で釈放されたのではなく、最初に取調べを受けた警察署に秘密裏に連行されたのだった。そこで、私は大佐の車に乗せられて、はるばる自宅まで送り届けられた。というと、なかなかサービスが行き届いていると思われそうだが、当局が刑務所の外で起こるであろうお祭り騒ぎを事前に潰そうとしていたことは明らかだった。

 4月に逮捕されたときには、私は40ドルの罰金を払ったが、40ドルが罰金として少なすぎたのか、いろいろからかわれたものだった。今回は五日間モスクワの刑務所に入れられたが、それは想像しうる最悪のケースというわけではない。中には、私が名前を売るために自分からわざと逮捕されたのではないかという人々までいる。チェス・プレイヤーの深慮遠謀な戦略、というわけだ。

 まず第一に、刑罰というのは重要ではない。重要なのはこういうことだ。そもそもロシアに法律はあるのだろうか?そして第二に、私は殉教者になるのはまっぴらごめんだし、獄中の反体制指導者になるつもりもまったくない。私はそんなものに幻想を持っていないし、刑務所が居心地の悪い場所であるということも身を持って知っている。私たちが直面している問題は、チェスのように冷血に計算をすればよいというものではない。問題は、自尊心と倫理に関わっている。私は自分がその場にいないのに、人々に対して路上でデモをするように訴えることはできない。土曜日のデモで、私は自分たちのスローガンを「自分たちの中にある恐怖を乗り越えよう」にしようと提案した。だから、私にはこの言葉を実行する義務がある。

 今回の逮捕が氷山の一角にすぎないと指摘することも重要である。私に起こったようなことは、ロシア中で日常的に起こっている。反体制活動家や、偶然当局の邪魔になってしまった人々は、薬物の不法所持、過激主義―最近の流行は不法なソフトウェアの所持―という容疑を捏造され、嫌がらせを受け、逮捕されてしまう。

 明日の下院選が私の裁判のように当局のシナリオ通りに進むことは間違いないだろう。3月2日の大統領選では、少し違った、よりアドリブ的な演出が見られるだろう。というのは、今でさえ、プーチン大統領とその取巻き連中は、自分たちのジレンマを解決することができていないからである。権力を失うことは、富と自由をも失うことになりかねない。けれども、あからさまな独裁体制を敷くことは、欧米との利益関係を危険に晒すことになる。

 プーチン大統領とその支持者による大々的な選挙運動は、本当に恐ろしいものだった。ロシアには、メディアと議会と司法を支配し、人気があると言われている大統領がいる。大統領とその仲間たちは、ロシア国民の富を完全に掌握している。プーチンは最近の演説で、「国内の敵」と「国外の敵」がロシアを弱体化させようとしているとヒステリックにわめきちらしていた。まるで全体主義国家の言説そのものだ。

 これまで、こうしたキャンペーンは、たいした効果を挙げていない。少なくとも私の場合には。刑務所に入れられていた五日間で、私は大勢のクレムリンプロパガンダの一般消費者たちと話す機会があった。彼らは総じて私に好意的で、クレムリンクレムリンがスポンサーについている若者のグループが私たち反対派について撒き散らしている嘘を信じている様子はなかった。彼らにとって、私は今もソ連のチェス王者であり、私が「アメリカのスパイ」だという考えは一笑にふされているようだった。

 物事がうまくいっているというなら、プーチン大統領は何をそんなに恐れているのだろう?プーチン大統領は、合理的で実利主義の人物であり、彼にメロドラマは似つかわしくない。プーチン大統領は、自らの支持者の数を把握しているはずである。だとすれば、なぜこれほど強烈で威圧的なキャンペーンを張らなければならないのだろうか。もしも、統一ロシアが勝利すると解っているのなら。答えはこうだ。プーチン大統領は、彼の権力基盤がいかに脆弱になっているかを痛感している。今や、プーチン大統領は、大衆の上に君臨するツァーリというより、神経質な独裁者の一人になり始めているといった方が相応しい。ジョージ・バーナード・ショーが言うように、「刑務所の中で最も心配性の人間は統治者である」。

 煽動は今もあるし、これからも起こるだろう。暴力的なプーチン親衛隊のナーシは、すでに12月2日のプーチン大統領の「圧倒的勝利」を祝うポスターを張り出している。ポスターには、「ロシア人民の敵」―その中には私もいる―が選挙の結果を貶めようとしているという警告まで書かれている。こうした言い回しは、脅迫と恐怖を呼び起こさせるプーチン大統領の言葉とまったくもってよく似ている。より過酷な弾圧に向けて準備が進んでいるのである。

 「もう一つのロシア」はこれからも活動を続けていく。なぜなら、闘う価値のあるものがあり、闘わなければ手に入らないものもあるからだ。プーチンのロシアと自由世界との間の「些細な違い」は、ついに断裂が避けられないところまで来ている。それは、民主主義と専制政治の違いである。