生き延びるために

ノーボエ・ブレーミヤ (New Times) 2008年2月4日 51号 アルミナ・バツダサリャン記者

生き延びるために、チェチェン人はヨーロッパへ逃げる。ヨーロッパはあまり歓迎しているわけではないが、チェチェン人たちは難民キャンプに住む覚悟をしても、チェチェンに戻ることだけは絶対望んでいない。ヴァイナフの民が、どこへ、何から逃げていったのか取材した。[翻訳 T.K.さん]
 「生まれ故郷を捨てていくことがあるなど考えたこともなかった。父と5人の親類が誘拐されてしまってから3月で5年になる。捜索のための資金をつくるのに、家も持ち物もすべてを売り払った。チェチェンにいた知り合いたちが、毎日のように、どこそこの谷間で身元不明の死体が見つかったと知らせてきた。そのつどでかけていき、死体をほりだしたり、切りおとされた手や足、首などを確かめた。何十という爆殺死体を見たが、みつからず、父はまだ生きているという希望を失わなかった。亡くなったのなら、せめて葬儀をしてやりたかった。わたしに業を煮やした当局から「もし生き延びたいのなら、チェチェンを離れろ。おまえは敗者なのだ」と言われた。わが一族の7人目の犠牲者にならないために、チェチェンを出る決心をした−−−。36歳のスルタンはこうしてグローズヌイ近郊の村を出た。チェチェン難民の名前は彼らの希望により、この記事では仮名にしてある。スルタンは第1次チェチェン戦争、第二次チェチェン戦争の、どちらでも戦ったことを隠さなかった。

 もう一人のグローズヌイ出身者、マリクは一度も戦ったことはなかった。スルタンより10歳若い。しかし、「起点」はいろいろな面で似ている。「2004年に自分が誘拐された。朝4時に連中がやってきて、拘束し、一年間拘留されて、その間、拷問され、供述をとって、他の人の罪を着せようとした。僕が今ヨーロッパに居るのは自分のせいではない。僕は全部見てきて、知っている。足下が燃えてきたら、他に選ぶ余地はないんだ。僕にとってはとにかく逃げることしかなかった」

 スルタンもマリクもチェチェン難民だ。経路は異なるが、それぞれの故郷を捨ててヨーロッパへ逃げた。異なるいくつかのデータで、EUの新加盟国―ポーランドチェコ、スロヴァキアの国々に約1万人のチェチェン難民がいるとされている。もとからのEU諸国(オーストリア、フランス、ベルギー、ドイツ、スイス、フィンランドなど)全体のチェチェン難民は35000人に上る。

 「表向きの安定は、チェチェン内部でおきていることを反映していない、だから人々は逃げようとしているのだ」 人権保護センター「メモリアル」のグローズヌイ支部職員のナタリア・エステミロヴァはそう語る。センターの調べによると、チェチェンからヨーロッパに逃げ出そうとしている筆頭は18歳から35歳の男性だ、なぜなら、相変わらず彼らのところには 夜中に突然当局がやってきて拘束していくからだ」

検疫ゾーン ポーランド

 スルタンは、2回目でチェチェン脱出に成功した。最初はウクライナ・スロヴァキア国境を非合法に越えようとして失敗した。そこでスルタンは、外国行きパスポートを5通(一通につき400ドル)購入し、妻と3人の子供たち(13歳を頭に、一番下は3歳だった)とともにベラルーシを通ってポーランド国境を越えた。チェチェンの大部分のひとたちが、新しい生活を求めてポーランドに出発する。

 古きヨーロッパに陸路(鉄道、バス、自動車、徒歩)で入るのに、東欧を避けるのはとても難しい。「中継点」となるのはほとんどいつでもポーランドだ。スロヴァキアへいく者もいるが、そこで公式の保護が与えられる可能性はほとんどゼロと言える。*1

ヨーロッパの新メンバーはアンチ・ペトゥシキ

 しかし、ポーランド自体は、EU加盟後一種のヴェネディクト・エロフェーエフの「モスクワ発ペトゥシキ行き」のアンチになってしまった。ポーランドでは「ダブリン2」という国際協定*2によるとEUの他の国にたどりついた難民も拘束されて、最初に到着した国に戻される。つまり、ポーランドに戻されるということで、一方、ポーランドは物理的にそれだけ大量の難民の殺到に対応できない。ポーランドだけでチェチェン難民は約5000人とされており、それはポーランドへの難民の95%であるという。
 スルタンもこのことを確認している。
 「ポーランドに到着するや、ただちに詳細な難民アンケートに答えなければならなかった。それから1年と2ヶ月待った。それから回答が来たー『寛大な許可』というものだ」
 つまり働く権利なしの居住許可だ。これはつまり、どこに住んでも勝手にしろということ。故郷に戻ることは出来ないし、ヨーロッパへ出て行く金はない。その間、他の難民たちと一緒の共同住宅に住んでいた(チェチェン人たちはこういう共同住宅をキャンプとよんでいる)。一部屋が3メートル四方。
 「飢えやそのほかの不便で気持ちが落ち込むことはない。しかし、わたしたちのメンタリティとして、11歳の娘や他人の眼に自分の下着姿をさらすことが耐え難い。恥ずかしい」とスルタンは訴える。

 「ポーランドのキャンプにいた人たちの唯一の希望は そこから出ていくことだった」と若いチェチェン人のマリクが思い出を語る。「もっとも、ポーランドで初めて、夜中に覆面のひとたちに連れて行かれる心配なしにぐっすり眠れたんだけどね。でもまもなく別の恐怖にとらわれた。このヨーロッパでどうやって生き延びていけるのか?ここに来た人たちは乞食をしているんだ。この9月にもチェチェンの女の子たちが 山の中で凍死したことを覚えているでしょう?あの子たちはお母さんと一緒で、ウクライナ国境をこえようとしたわけではなかった。なんとかしてそれを避けてスロヴァキアに入ろうとしたんだが、道に迷ってしまった。ポーランドから人々は逃げていく、徒歩で。河をわたり、山を越えて、しかも乳飲み子を抱えた人たちが・・・」

疑問の代償

 マリクが若い妻とポーランドに到着したのは2年前のこと。汽車を乗り継いできた。ウラジーカフカス、ロストフ、ブレスト・・・「いたるところで金を巻き上げられた。国外脱出には5−6000ドルかかる。列車が止まるたびに、各車両の乗務員は「チェチェン人の乗客がいるか」と訊かれる。ブレストまで300ドルかかった。そこからチラスポリまでまた電車。一本は朝5時半、次のは16時半発だった。電車にのって15分ほどでポーランドの税関に着く。税関吏が入って来てこういう「チェチェン人はついてくるように」僕は妻と一緒に立ちあがって、ほかに15人ほどが一緒だった。僕らは何も知らなかった。税関で保護を求める陳情書を作ってくれた。それから僕らは一日の拘留の後に一ヶ月国外追放キャンプにおかれた。それから突然、釈放となり、共同住宅、キャンプに入ることになった。ロシア風に一ヶ月690ルーブルが与えられた。数ヶ月後に妻が妊娠し、とても具合が悪くなり、僕は出来る限りの節約をした。それから10ヶ月ほどして難民認定が下り、金の支払いが続いた。ポーランド人だって失業していた。母はグローズヌイにあった家を売って、仕送りをしてくれた」
「モスクワには、あたかもどこかに勤務していて成功しているモスクワのビジネスマンであるという偽の履歴を創作してくれる非合法の組織がいくつもある。子供が二人いる家族にとってこれは5000−8000ドルかかる」―と、ルスランが語る。彼はフィンランド在住チェチェン人のリーダーで、かつてサンクト・ペテルブルグから脱出して来た。

西へでてからの罠

 可能なものたちは 西側でさらに西へと脱出していく、そこでは 社会福祉や支援制度が整っており、社会復帰センターがある。最近まで大部分のチェチェン人がオーストリアをめざしてきた。様々なデータによれば2007年にはオーストリアチェチェン難民は約16000人だった。そのうち約半分が難民認定を受けている。しかし、それ以外のものたちはかなり不運だ。「オーストリアは チェチェンが安定したということを信用したの」と「市民の支援」委員会のスヴェトラーナ・ガンヌシキナ議長は言う。
 反チェチェン意識をオーストリアで利用しているのは極右勢力だ。極端な発言で有名なハイダー知事は政府に要求している「チェチェン民族は潜在的に暴力的」なので「チェチェンからの難民を保護することをただちにやめるべきだ」と。

フランスの簡易ベッド

 しかし、オーストリアでの問題と同時にフランスの「抜け穴」も出来ている。フランスでは、昨年の9月に「ダブリン2」協定の最初に国境を越えてきた国への強制送還についての項目を、事実上廃棄する文書が採択された。そしてチェチェン難民は一斉にフランスに流れた。シャルル・ド・ゴール空港ではチェチェン語の会話がいたるところで聴かれるようになった。最近3ヶ月で、ロシアからの入国者は1200人、12月だけで600人。ほとんど全員が ポーランドやスロヴァキアから逃げてきたチェチェン人。

 スルタンの家族も空港におりたつところだったが、最後の瞬間に陸路でいくことにしたのだ。借金をして、1月にフランスを目指して車で出発。ポーランドではこれにからんだ一つの事業が生まれている。所定の料金を払うと国境を越えさせてくれる、「ガイド」たちが国境警備隊と話をつけてくれる。「徒歩で進んだところもあった。チェチェン人が時々捕まって、一ヶ月ほど拘留されてから、また、ポーランドに送り返される例もあると聞いている」とスルタンは付け加えた。

 こうして スルタン一家は1月11日にフランスに到着。まず社会福祉事務所に行ったが、「場所はない」の答え。どこにも宿泊することが出来ない。「冬、寒さのなかで 娘は病気になっていた。われわれはどこかの役所につれていかれ、夕方までそこで待った。8時半ごろ外に出され、車で郊外に連れて行かれた。そこに、貨車が止まっていて、まわりに野良犬やホームレスがうろついていた。簡易ベッドと何か袋が与えられ、朝8時までそこに居た。朝、「出なさい!」とノック。また 社会福祉事務所につれていかれ、夜はホームレスのところに逆戻り。これが1週間続いた。金を借りて、家族はフィンランドに向かった。こうして、36歳のスルタンとその一家はフィンランドで 地元の許可を待っている。この先どうなるかは不明。「ここに残ることができれば、嬉しい。せめて職を見つけたい。わたしは石職人で、大理石や御影石の細工がうまいんだ」とスルタン。
  

ならず者たち

 この人たちがヨーロッパに居住できず強制退去となってしまったら?ありうることはふたつ。一つはロシアに送られる。ふたつは ウクライナまたはベラルーシに送られる。どちらも危険だと、人権保護団体はみている。ロシアでは カディロフ派の者たちにねらわれるだろう。ウクライナでは 難民問題ヨーロッパ評議会の報告にあるとおり「こうしたひとたちが EUからウクライナを通してロシア連邦に追放される危険」は明らかだ。
 「11月にスロバキアからウクライナに3人の若者が追放されました。ウクライナは直ちに彼らをロシアに突き出しました。ベルゴロドで3人は暴行され、その後ヴォロネジにおくられました、何かの罪をかぶれと強要されたのです。しかし、3人のひとりが脱走し、このことを抗議しようとしたために、他の二人も釈放されました。しかし、彼らは恐がって黙っています」と人権保護運動家のスヴェトラーナ・ガンヌシキナが語った。「戻って来てひどいめにあった人が居ます。モスクワの空港でただちに拘束され、そのまま行方不明の人たちも。自分の故郷までたどりついてもその検問所で捕まってそのまま2ヶ月穴牢に閉じこめられていた人たちも。その人たちは、立て続けに暴行され、動物のような状態にされました。その穴からでてくるときはもう人間らしさを失っていました」と語るのはグローズヌイ支部のナタリヤ・エステミロヴァ。

 「こうして住居が定まらないまま。何年さまよっているのだろうか。父が誘拐されてわたしがチェチェンを出なければならなくなった頃、子供たちはまだ小さかった。今は子供たちにしょっちゅう訊かれる。「おとうさん、あたしたちどこにいるの?何してるの?どうしてここにいるの?」どうしも、説明できない。「おじいちゃんや親戚のひとたちが誘拐されたんだ。おまえたちが帰りたいなら故郷に戻ろう、だが、そうすれば やがて、わたしも消えてしまうよ」とは」

 難民問題ヨーロッパ評議会ECREの「チェチェン難民取り扱いマニュアル」(2007年)の第7項にこうある「ECREは、国際的な保護を求めてくるあらゆるチェチェン人をロシア連邦に強制的に送り返すことに反対し、長期的な解決がロシア連邦に自発的な本国帰還であるというプロパガンダに反対する、なぜなら、ロシア連邦において安全も尊厳も保証されないからである」と。

原文: http://newtimes.ru/magazine/issue_51/article_9.htm

*1:註 2010年にヨーロッパ単一の難民保護体制ができる

*2:2003年9月発効。難民保護の手続きの責任はEUの一国が負うというしくみ